2018年5月8日火曜日

ロビン・ジョージ・コリングウッドによる哲学



先日、ある人の本を読んでいたら、イギリスの哲学者R・G・コリングウッドが出てきた
普段、イギリスの哲学者は視界から消えているが、手元に1冊あったので読んでみた

An Essay on Philosophic Method である

最後にあった「文学としての哲学」をパラパラと
R・ローティの「哲学とは哲学書に基づく文学である」という言葉を思い出したからだ

普段読んでいる文章、思考法と異なっているが、興味深い対比がいくつか出てきた
詩と散文、哲学と歴史、科学と哲学など
記憶に残っているところをメモしておきたい
一度自分の脳を通過しているので、少し修飾されているかもしれない


哲学には詩の要素もあるが、基本的には散文である
詩は言葉や言葉の並びの美しさを競う
一方の哲学はそういう美も求めるが、それが目的ではなく、あくまでも手段である
目的は思考をどれだけ明確に表現できるかで、真理の探究を目指している
同じ理由から、詩にとってのメタファーはそのものとして効果や意味を持ってくる
しかし、哲学では使うことはあっても手段であり、多用は厳禁である

歴史家は自分が知っている中から確実なものを選び、読者に諭すようなところがある
したがって、読者が歴史家に親近感を持つことは少ない
哲学者はその反対で、まず自分自身に向かって書く
告白の要素があるのだ
確実なものを選ぶのではなく、よく分からない曖昧なことも取り上げて書く
それらをよりよく理解しようとしているからだ
哲学者は難題に向き合うのに対して、歴史家はそれを隠す傾向がある

歴史書の読者は、歴史家に相談する
哲学書の読者は、哲学者の後を追うのだ
哲学者の体験を追体験して、自分もそのことを考える
そこに読者と哲学者との間に親近感が生まれる素地がある
つまり、歴史家には思考の結果を求めるのに対して、哲学者には思考そのものを求めるのだ
したがって、哲学者が抱えている問題意識と重なるものがないとその著作は意味を持たない
あの哲学者は何を言っているのか分からないなどと言っているのは、読者の責任になる
読む本を間違えているのである

科学は専門用語を多用する
ほとんど術語だらけで、それなしには科学は成り立たない
新しいことが見つかる度に、新しい術語が造られる
実は術語は言葉でなく、記号なのである
術語を普通の言葉で説明することは困難を極めることが多い
そのものとして知っていなければならないのだ
科学が一般の人に理解されないのは、当たり前と言ってもよいだろう

哲学は専門用語を殆ど使わない
科学のような、融通が利かない、それ故そのものだけを指すことができる専門用語は
使ったとしても、それは別の普通の言葉で説明することができる
第一、哲学に全く新しいことなど殆ど出てこない
既に少しは分かっているようなことに新しい意味が加わることはあっても
哲学が使う言葉にはいろいろな意味が内包され、柔軟性がある
つまり、科学書が技術書であるとすれば、哲学書は文学書ということになる
哲学は科学の言葉(=記号)を避けなければならないのだ







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