2018年3月29日木曜日

ハイデッガーの『存在と時間』6



本日も午前中は雨で、夕方にかけて明るい光が見えるようになった
夏時間の影響も出始めていて、よい感じなってきた
それでは、クリッチリー教授の考察に戻りたい

これまでの「死に向かう存在」という概念には、良心の問題が出てくるという
この概念自体は形式上は問題ない
しかし、onticなレベル(現実の具体的な経験のレベル)ではさらに何かが求められる
有限性が自己を捕らえるのは、良心を通してだからである

良心とは呼ぶ声である
馴染み深い日常に浸り切っている偽物の生活から離れよ、と呼ぶ何かである
この世界の喧噪や無駄なお喋りから抜け出て、忙しさを止める声のような何か
その外からの声を頭の中で聞くという神秘的経験である
これはアウグスティヌスやルターのようなキリスト教信者の経験に近い

しかしハイデッガーの場合、それは神が自分に語ることではなく、私が自分に語ることである
日常の偽物の生活から呼び戻される神秘的な経験である
良心とは、人間が自分自身を死すべき者として呼び戻す経験である

良心の声で何が語られるのかと言えば、何の指示も助言もない
無言である
それを理解するには、偽物の生活はお喋りに満ちていることを掴むことが重要である
良心の無言の呼び声が私を私自身に戻してくれるのである

しかし、それは何を理解させるのだろうか
良心の声は「有罪!」という一つの言葉に還元される
Daseinの罪とは何を意味しているのか
人間存在は投企されたものと規定されるので、あるべき存在を持っている
人間存在は欠乏であり、埋め合わせるために駆り立てられる負債である
それが罪の存在論的意味である

罪は倫理的な自己の深部構造を明らかにするとハイデッガーは言う
それは道徳に先立つものなので、道徳では説明できない
罪とは、如何なる道徳にとってもそれ以前の源で、善悪を超えている
単に我々が在るところのものであるということであり、我々は有罪であるということである
「常に、すでに」そうである

真のDaseinは声の意味を理解し、自身が罪ある者であると理解するようになる
そこで、Daseinはそれ自身を選ぶのだが、それは良心を持つことではない
良心を持ちたいと思うことである(欠乏に向けての傾きか)
私であるという欲求を欲することを選択するのである
そのことによってのみ、人間は責任を負えるとハイデッガーは言う
倫理において鍵となる責任の概念は、声を理解し、良心を持ちたいと思うことから成っている
この選択をするということは、固い決意を持つようになることである

(つづく)




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