2018年3月28日水曜日

ハイデッガーの『存在と時間』5




『存在と時間』の基本的な考えは、「存在は時間で、時間は有限である」ということだ
人間存在にとって、時間は死に向かい、死とともに終わる
従って、真の人間存在とは、本質的に我々は死の地平に投企されているということである
すなわち、「死に向かう存在」であり、我々の存在は有限だということである
ならば、真の人間生活は有限性と向き合い、そこから意味を汲み取ろうとすることである
彼は、古くからある「哲学とは如何に死ぬのかを学ぶこと」という言葉に同意する
死すべき運命は、我々が我々の自我の在り様を形作ることと関係しているのである

「死に向かう存在」には、次の4つの基準がある

一つはその非関係性である
死を前にした時、他者との関係が切断される
死は自分で経験するしかない
二つ目は、それが確実だということである
我々は死に行く存在であるという事実から逃げても、死は確実にやってくる
三つ目は不確定性で、確実に死ぬがそれがいつかは分からない
そして最後が、それは超えることができない極めて重要な問題だということである
死がやってくると、すべての可能性が消える
ハイデッガーが言った「不可能性の可能性」である

「死に向かう存在」に含まれている最も重要な意味は、可能性への賛歌である
 ここで、Erwarten(待ち受ける)とVorlaufen(先を走る)を区別する
前者は運命を前に受け身であるのに対し、後者はそれを予期して自由な行動の条件とする

ここで逆説が現れる
自由とは死という必然性の欠如ではなく、その必然性を肯定することから生れるのである
真に在るところの存在になるのは、「死に行く存在」の認識の中だけなのである
我々の有限性を受け入れることこそが、我々の生の基礎にある
これが偽物の日常生活に浸りきったところからDaseinを引き上げるものなのである

この主張は、自分の死こそが最も重要で、他者の死は二次的であるということに繋がる
それは間違いで、道徳的にも問題があるという批判がある
さらに、伝統的な人間中心主義が働いているという批判もある
つまり、人間の死だけが重要で、他の生物の死は下に置かれる
他にも死を経験できる生物がいるのではないかという批判である

(つづく)






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