2018年3月24日土曜日

ハイデッガーの『存在と時間』2



昨夜、ハイデッガー関連のビデオを観た
その中からナチスとの繋がりに関係する発言を少しだけ

バディウさんのコメント
「彼がナチスであることは何の疑いもない。当時の知識人も含めた多くのドイツ人が支持していた。それは事実だ。ただ、恰も探偵小説を読むように、ナチスの証拠を探すように彼の作品を読むことは、どうだろうか。それは哲学の本当の味わい方ではないのではないか」
リチャード・ローティさんも同じ観察をした後で、こう付け加えている
「彼はナチスのやったことを知っていたはずだが、そのようなこと関して何も発言していないのはどうだろうか。・・・どうしようもない人間が素晴らしい作品を書くことがあるが、ハイデッガーはその好例だろう」
ハイデッガーの弟子ハンス・ゲオルク・ガダマーさんは、当時の驚きをこう語っている
「その事実を知った時、わたしだけではなく周りも言葉を失った。どうしてそんなことがあり得るのか。どうして彼がこのような過ちを犯し得たのか、と問わなければならない。そして、彼は気が狂ったのだと我々は考えた」

では、『存在と時間』の続きを始めたい

本書が扱っているのは、存在の問題である
生物や物理的世界というような特定の存在ではなく、存在そのものについての学問だ
抽象的で、普遍的で、最も根源的な哲学の領域
2,500年前にアリストテレスが「第一哲学」と呼び、後に形而上学と呼ばれたものである
我々はその答えを持っていないし、その問いに困惑を感じることもない
ハイデッガーがやろうとしたことは、存在についての困惑を呼び戻すことであった
ライプニッツの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問い関するものでもある

まず、我々自身が解析されるべきものとしてあると告げる
つまり、この問いはわたし自身のものとなるのである
人間存在は何から成るのか?
それは時間によって規定される人間の実存(Existenz)である
個人的、文化的な過去を持ち、現在から未来にある一連の可能性へ歩み出す存在である
この存在はわたしに無関係ではあり得ず、自らに問いかける、開かれた存在である
これが彼の言うEigentlichkeit(オーセンティシティ、本来あるべき性質)の本体である
ここで、自分自身としてあるのか、そうしないのかという重要な選択が出てくる

哲学は、例えば、世界は存在するのかというような現実離れした推論をすることではない
そうではなく、我々の日常にある人間を記述することから始まるのだ
その日常性の中から一般的な構造を引き出そうとするのが哲学である
しかし、我々に最も近く、当たり前のことを記述することは極めて難しい

(つづく)





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