2018年2月13日火曜日

「独我」は避けなければならないのか




昨日、寝る前にアメリカの哲学者リチャード・ローティのインタビューを観た
例によって、偶々現れたからである
暫くすると、その発言に驚くところが出てきた
この最初の接触で抱く印象を捉えることが重要だ
記憶を辿ると、彼はこんなことを言っていた
形而上学はルールのないゲームだ
好きなことを言って逃げ切ればよい
この世界は観念で出来上がっているとか、モノだけだとか
両者の間で発展的な了解が成立するとは思えない
わたしはプラグマティストで反プラトン主義者
絶対的真理などというものを問題にしない
分析哲学と大陸哲学がある
前者はアングロサクソンで優勢で、問題解決の志向がある
後者は西洋の文化を語るという傾向があり、narrative philosophyとも言える
わたしは分析哲学ではなく、narrative philosophyに属するだろう
これらの発言に反応したのは、これまで自分も考えてきた問題だからだ
そして、彼の立場が自分のものと違っていることが見えたからである
特に形而上学に関しては、捉え方が表層的で一面的に見える  
あるいは、その対比により自分の立場がより明確になってきたと言った方がよいだろう

暫く話を聞いているうちに最初の驚きが薄れてくるのが分かる
なので、最初の印象を覚えておくことが重要になる
と同時に、一人の世界にいて内なる声とともに考えることが重要であることも見えてくる
(これ自体がプラトニシアンの印になるのか)
このような話によって影響されることがなくなるからだ
その意味では、勉強し過ぎるのもよくないのだろう
勿論、熟した後には外に出て晒さなければならないのだが、、

この態度は独我論になりやすいと批判されることもある
ローティ氏もおそらく反対を示すのだろう
しかし、残っているものは皆、「独我」の要素満載である

この議論少々独我的に過ぎただろうか


もう一つ思い出したことがある
それは核兵器が存在する世界の問題である
彼の結論は、テロリストが核で襲撃することを防ぐことは誰にもできないというもの
大戦後に核廃絶の機会はあったが、今ではどうしようもないと諦観しているように見えた
生存中にその現実を目にすることがなかったのは、彼にとっては幸いであった






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