2018年2月28日水曜日

トゥールに戻ると雪



今日は午後から用事がありパリへ
快晴で気持ちが良い
用事は何もなければ年に一度のもの
1時間半ほど話していた

その中で対応してくれた人が何を思ったのか、フランス国籍ですかと訊いてきた
このフランス語で?と返そうとしたが、関係がないことに気付き、思いとどまった
余りにも一生懸命に働いているようなので、こう言ってみた
仕事は人間によくないですよ
これは非常に受けたようである
マニュアル対応ではないので、人間がそのまま出てきて実に興味深い

帰りはゆっくりした電車だったので、よい読みができた
トゥールは雪
明日は積もりそうな勢いであった
春はもう少し先だろうか
クリスマスソングがしっくりくる夜である





2018年2月27日火曜日

編集者ゲラ届く



先週末、編集者の校正ゲラが届いた
これから自分のものと突き合わせる作業が待っている
1週間から10日くらいで終えることができればと思っている

本日も快晴だったが、寒い一日でもあった
夕方、少し白いものの乱舞が見られた

アパルトマンに留まっていたが、これまでになく集中できたようだ
こういうことはなかなかないので驚いている
何かが変わりつつあるのだろうか
いつも裏切られるので、期待しないで様子を見たい


"'Intellectual' means people who think about things longer than other people, perhaps." ---Paul Feyerabend
「インテリとは他の人より長く考える人のことである、おそらく」(ポール・ファイヤアーベント




2018年2月26日月曜日

起こったことを経験に変える



今日も文句のない快晴
午前中は太陽と青空を味わう
午後から旧市街へ
風はまだ冷たい
比較的集中できたのではないだろうか

Youtubeのサイトで次の言葉が現れた

"Experience is not what happens to a man; it is what a man does with what happens to him." - Aldous Huxley
「経験とは人に起こったことではなく、起こったことをどうするのかということである」

この言葉で、哲学での時間が科学についての時間を経験に変えることであったことが分かる
そして、これからやろうとしていることは哲学の時間を経験にしようとしていることになる
これまでに起こったことを考え直そうとしているという意味において





2018年2月25日日曜日

エッセイに登場した人物



昨日、今日と気持ちの良い快晴が続いている
こういう日は何もやる気がなくなり、日の光とたっぷり味わうことになる
暫くすると、これまでに書いたエッセイにどんな人物が登場したのかという疑問が浮かぶ
早速、調べてみた

最初の20回分ほどを見直してみたが、驚いたことにすでに300人ほどが出てくる
その中には何度も出てくる人がいる
書いている時に浮かんできた関連する人物をできるだけ記録しておこうとしたのだろう
殆どは名前だけだが、そこから自分が興味を持った人物が見えてくる

現在までに66回書いているので、単純計算すれば1,000人位になることが予想される
一体どのような像が現れるのだろうか
さらに興味が湧いてくる
そこにこれからに向けての扉があるかもしれないからだ
暇が齎してくれた発見であった





2018年2月24日土曜日

ヒュー・マセケラさん亡くなる



南アのジャズミュージシャンヒュー・マセケラさんが一月前に亡くなっていたことを知る
享年83
初めての方になる
反アパルトヘイトの運動にも関わっていた
その背後には社会の不正義に対する強い感情があるようだ
いくつか聴いてみたい














2018年2月23日金曜日

ホットウォーターが出る



本日は午前中快晴で、午後から雲が出てきた
それにしても寒い風であった
午後から街に出た

二軒目のカフェではホットウォーターが出てきて驚く
初めてのことではないだろうか
こういう日には有難く感じた






2018年2月22日木曜日

第3回ベルクソン・カフェのご案内



<フランス語を読み、哲学する>ベルクソン・カフェを開催いたします 

ポスター
サイト
 
  <2回シリーズ> 

① 2018年6月9(土) 16:00~19:00 
② 2018年6月16日(土) 16:00~19:00 

1回だけの参加でも問題ありません 

テクスト
 
Pierre Hadot
« Apprendre à dialoguer »
「対話することを学ぶ」 

Exercices spirituels et philosophie antique, pp. 38-47
(Albin Michel, 2002)

参加者にはテクストを予めお送りいたします 

会 場
東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1



議論は日本語で行いますので、フランス語の知識は必須ではありません
このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

ご理解、ご協力の程、よろしくお願いいたします






2018年2月21日水曜日

やっとすっきりする



今日、やっとゴミの処理ができた
随分と待たされたものである
外も明るく、久しぶりに気分はすっきりである

1週間を1日とすれば、今日は午前10時から昼過ぎくらいか
昨日よりは少し良くなっているような感じがする
ひょっとすると面白い展開になるかもしれない




2018年2月20日火曜日

一週間単位で考える



今日も曇りのち雨である
まだゴミ収集車が来ていない
いやはやの状態である

ひょっとすると前にも考えたことかもしれないが、そうだとしたら再び浮かんできた
それは、一週間を一日として考えるというものだ
その方が自由に動けるのではないかと想像したからである
こういうことを考えるということは、ちゃんと動けていないという証拠である
あるいは、瞑想的な(=だらだらした)生活をしたいということかもしれない
予想通り、週の初めは希望通りになっている
少なくとも最初の「一日」だけは様子を見ることにしたい






2018年2月19日月曜日

ディディエ・ロックウッドさん亡くなる



メールのサイトで、フランスの音楽家が急死したとのニュースが目に入った
お名前は初めて聞くジャズバイオリニストのディディエ・ロックウッドさん
享年62
その前の世代になるステファン・グラッペリさんについては知っていたのだが、、
もう長い間、クラシックも含め音楽シーンをフォローしていなかったことが分かる
その記事で奥様が歌手のパトリシア・プティボンさんであることを知った
こちらの演奏は聴いたことがあったので、その繋がりにも驚いた

  「私を泣かせてください」、そして嬉しい便り(2010.4.12)

追悼の意味も込めて演奏をいくつか聴いてみたい












二つ前のブログにある8年前の記事を読み返すと、いろいろな感慨が浮かんでくる
今回引用した記事の中でリンクされているところに進むとドイツの科学者との会話が蘇る
いかにもヨーロッパの人らしい反応が出てきて感心したことを思い出す
ほとんど忘れていた「時代」のことである





2018年2月18日日曜日

SN 比の高い世界



サイファイ研の催し物に参加される方で、折に触れて研究成果を送ってくれる方がいる
最近、モスクワの学会で発表するための抄録が届いた
今朝それを読んでいると、これまで感じてきたことと関連することが出てきた

先日、日仏での生活で感じる違いとしてディスタンスを挙げた
 環境とのディスタンス(2018.1.27)
今回、生活におけるノイズの差という視点からもこの問題を理解できることに気付く
ノイズの低い環境として僧院が挙がっていたので、そのことに気付いたのだ
低ノイズの世界から優れたものが生まれてくるという
ノイズが高い場合、どうでもいいことに意識が向かってしまうからだろう
シグナル・ノイズ比が低くなり、シグナルがノイズによって隠れてしまうのだろう

日仏の比較で言えば、こちらのノイズが圧倒的に低いと言える
おそらく、そのために自己への集中が容易になるのだろう
そこで起こっていることが手に取るように分かるようになるのである






2018年2月15日木曜日

チベットの瞑想音楽がよい



色々なプロジェに当たっている
音が何もない、永遠に広がる空間の中に身を預けるのがよいこともある
実際には「精神を」ではあるが、、
何かを自分の中から探し出そうと考えている時は、これでなければならない

あるいは、音楽が遠くで流れているような感じがよいこともある
比較的単調に見えることをやる場合である
言葉が入っていたり、感情を掻き立てるようなものは駄目である
普通のクラシック音楽もいろいろな情念を呼び覚ますので、駄目の部類に入る

このためにはチベットの瞑想音楽が打ってつけであることが分かった
いつもの偶然によったものだが、騙されたと思って聞いてみたところ意外な効果があった
例えば、こんな具合である









2018年2月14日水曜日

哲学固有のものとは



昨日は朝の内曇っていたが、お昼前には雪となった
最初細かく、後に大きな雪の乱舞となった
そして最後は霙になり、夕方にはそれも上がった
ごみ収集車はまだ来ていないようだ

昨日のローティ氏の話で、もう一つ思い出したことを書き留めておきたい
それは哲学に関することである
彼は哲学は文学だとしていた
哲学に特有のものはなく、ただ、西欧文化(の伝統)について語ることだと言っていた
その時に読むのが哲学書であり、文学者は文学を読むという違いだけだという
極々当たり前のことであるかのように、そう言っていた
英語では、matter-of-factlyとでも言うのだろうか
これには少々がかりしたが、やっぱりかという感じであった
自分が辿り着いた認識もそこにあったからである

それはこういうことである
わたしが哲学に入った時、哲学に固有の思考法があれば学びたいと思っていた
しかし、マスターの2年間でそういうものは見えてこなかった
教師自身も「哲学に固有の」ということを意識しているようには見えなかったからだろう
その結果、哲学に固有の思考法はなく科学の頭でも対応できると結論した
哲学が哲学たり得ているのは、哲学の伝統の上に立って考えているからということになる
それは余り面白くない結論ではあった
とすれば、どういうことになるのか
哲学の方法論を探るには、自らが人類の遺産に当たらなければならないことになる
彼らがどのように考えていたのかを地道に学ばなければならないと悟ったのである





2018年2月13日火曜日

「独我」は避けなければならないのか




昨日、寝る前にアメリカの哲学者リチャード・ローティのインタビューを観た
例によって、偶々現れたからである
暫くすると、その発言に驚くところが出てきた
この最初の接触で抱く印象を捉えることが重要だ
記憶を辿ると、彼はこんなことを言っていた
形而上学はルールのないゲームだ
好きなことを言って逃げ切ればよい
この世界は観念で出来上がっているとか、モノだけだとか
両者の間で発展的な了解が成立するとは思えない
わたしはプラグマティストで反プラトン主義者
絶対的真理などというものを問題にしない
分析哲学と大陸哲学がある
前者はアングロサクソンで優勢で、問題解決の志向がある
後者は西洋の文化を語るという傾向があり、narrative philosophyとも言える
わたしは分析哲学ではなく、narrative philosophyに属するだろう
これらの発言に反応したのは、これまで自分も考えてきた問題だからだ
そして、彼の立場が自分のものと違っていることが見えたからである
特に形而上学に関しては、捉え方が表層的で一面的に見える  
あるいは、その対比により自分の立場がより明確になってきたと言った方がよいだろう

暫く話を聞いているうちに最初の驚きが薄れてくるのが分かる
なので、最初の印象を覚えておくことが重要になる
と同時に、一人の世界にいて内なる声とともに考えることが重要であることも見えてくる
(これ自体がプラトニシアンの印になるのか)
このような話によって影響されることがなくなるからだ
その意味では、勉強し過ぎるのもよくないのだろう
勿論、熟した後には外に出て晒さなければならないのだが、、

この態度は独我論になりやすいと批判されることもある
ローティ氏もおそらく反対を示すのだろう
しかし、残っているものは皆、「独我」の要素満載である

この議論少々独我的に過ぎただろうか


もう一つ思い出したことがある
それは核兵器が存在する世界の問題である
彼の結論は、テロリストが核で襲撃することを防ぐことは誰にもできないというもの
大戦後に核廃絶の機会はあったが、今ではどうしようもないと諦観しているように見えた
生存中にその現実を目にすることがなかったのは、彼にとっては幸いであった






2018年2月12日月曜日

雪の影響か



今朝は気持ちの良い快晴となった
ゆっくりとその時間を味わう
満足したところで外に出た
なかなか進まないプロジェに向き合う
諦めて、「付き合う」という感覚が必要になるようだ

街の至る所にごみ収集用の大きなボックスが出されているのが目に付いた
殆どから溢れんばかりのごみが顔を出していた
おそらく、先日の雪の影響ではないかと思う
収集車が来ていないのだ
配達でも遅れているものがある
あの程度の雪で、と思うくらい交通網は弱いようだ




2018年2月11日日曜日

悍ましい煙草の箱



本日は曇ってはいるが、陽の光が見えるまずまずの一日
向かいのグラウンドの鮮やかな緑も戻ってきた
外に出る予定ではあったが、籠ってゆっくりすることにした
4つほどのプロジェに当たる

ところで、昨日外に出た時、久しぶりにシガリロをやりたくなり、タバへ
そこで驚いたのは、すべての箱に癌や病人などの写真が印刷されていることだった
大きな太文字の警告文とともに
以前はここまで徹底されていなかったように記憶しているのだが、、
フランスの美意識もどこへやら、悍ましいものを見た気分であった





2018年2月10日土曜日

別の異次元の後は望む異次元へ



昨日は素晴らしい朝焼けでスタートしたと思ったが、暫くすると雪になった
午前中は降り続けていたが、午後には止み、夕方には快晴となった
雪が止んだところで旧市街に出た
コーヒーの中に眠り薬が、とでも思われるくらい急に眠気が襲い、驚く
前日とは打って変わって、別に異次元に入ってしまった
全く何が起こるかわからない

今朝も快晴でスタート、午前中はたっぷり日の光を味わった後、中心街に出た
お馴染みの景色も輝いて見える雪の翌日である
今日は気分も新たに新しいカフェで、望む異次元の中に入ることができたようだ

ところで、こちらの交通機関では無賃乗車の抜き打ちチェックがある
パリでも係員が車内に入ってくるものから、通路で待っているものまでいろいろだ
中には通路が曲がったところに隠れるようにして待っている場合もあった
その状況はトゥールでも変わらない

今日はバスの中でちょっとした捕り物があった
バスの中に入ってきた係員に気付いた乗客の一人が突然走るように出口へ向かった
そこですぐに反応した係員が乗客を押さえつけ、外に連れ出し拳を振り上げた
そこに数名の同僚が駆け付け、拳を振り下ろすことなく終わった
我々の体の中で衰えているように見える獣性が顔を出すのを見た






2018年2月9日金曜日

異次元で集中



昨日は久しぶりに気持ちの良い快晴になったので、午後から外に出た
やはり、外でなければできない集中があるようだ
現世が消えるこの感覚、何とも言えないものがある  
2か所に寄り、プロジェを少しだけ前に進めることができた
2軒目では数十人の日本人団体を見かけた

おそらく雪のせいだろう、街ゆく人の心も弾んでいるようであった
以前にも触れたが、トラム車内で駅のアナウンスの後にハミングするところが数か所ある
昨日はそれに合わせて歌声が上がっていた




2018年2月8日木曜日

雪解けの朝



昨日の午前中は雪が深々と降っていたので、雪を見て過ごそうかと思っていた
しかし、午後から止んでしまった
今朝は空は晴れ上がり、雪が降った翌朝の光輝く景色が広がっている
雪解けの雫が落ちてくる音も響いている
実に気持ちがよい日となっている


ゲラの見直しだが、もう一度見直すことにした
編集者からのバージョンが入るにはもう少し時間がかかりそうだからである
最初の原稿の見直しを入れると、3回目になる
この後、編集者のものと突き合わせるので、それが4回目
そして、両者を統合した最終ゲラについてチェックすることになる
結局、目が5回入ることになる
この目が節穴でないことを願うばかりだ
手間はかかるが、すべてのプロセスがアーティザナルな感じがしてなかなかよい
いま、アーティザナルな営みに立ち返る必要があるのかもしれない





2018年2月6日火曜日

今年初めての雪



本日も午前中は雨
止んだところで用事を足すために郊外へ
ロワールの水嵩も増え濁っていたが、溢れるところまではいっていない
残念ながら、探していたところは閉まっていた
小さな町の不便な点だ
どう対処するか考えなければならない

そうこうしているうちに、空から細かい白ものが降りてきた
今年初めてではないだろうか
最初は細かかったものがどんどん大きさを増し、夕方までには道が白くなった
これまでは特に感じなかったが、2月に入るとやはり寒い
一年で一番寒い月と言えそうだ

ただ、この雪の中に雪解けの春も見えてくる





2018年2月4日日曜日

エドゥアール・グリッサンさんの至言

      Édouard Glissant 
      @Mussetsand


本日も朝から雨が降り続いている
ゆっくりすることにした

先日、加藤周一のビデオを見ている時、この方の言葉が印象に残った
マルティニーク出身でフランスとも縁の深い作家エドゥアール・グリッサンさんである
番組は2001年のもの
グリッサンさんのお話は、8年前のパリの Salon du Livre でお聴きしたことがある

対談で多言語主義が問題になった時のこと
言葉は正確ではないが、次のようなことを言っていた

こんにち、我々は単一言語的ではありえない
ある言葉の中に世界中の言葉が響いている
その響きを聞き取っている(聞き取らなければならない?)
単一言語的にではなく、開かれていなければならない
いろいろな言葉を操る人が多言語的だとは限らない
単一言語的な思考に陥っている貧しい場合もある
多言語主義とは言語を自由に使うことについての解放である


振り返ってみるべき深い問題が提示されている



2018年2月3日土曜日

ゲラの校正終わる



このところも相変わらずの天気だが、時に青空が顔を出すことがある
その時は、ゆっくりと陽の光を味わうように瞑想の中へ
今日は残念ながらの曇りであった

先月届いたゲラの見直しをやっていたが、今日終えることができた
この間の作業を見ていると、次のようなことをチェックしていることが分かる
そこにある訳文が自分の中にある日本語の構文と語彙からズレていないか
各文章間の論理的なつながりに整合性があるかどうか
さらに記憶の中にある事実と矛盾することはないか
より広い範囲が視野に入るようになっているため、気付くことが多くなる

これまでにも触れていることが明らかになる
そこにある事実は著者のものである
しかし、訳された文章は著者のものではなく、訳者の日本語世界が反映されたものになる
著者の文章を日本語に置き換えることなど不可能なことはすぐに分かる

さらに、訳や見直しの過程では自らのすべてを注ぎ込んでいるという感覚がある
訳し出されたものの中には訳者の成分が表出されているのではないかと想像される
それがどのように表れているのかは自分では判別できないのではあるが、、
クリルスキー氏が、翻訳版は半分以上訳者のものですよ、と言った意味が見えてくる
いずれにせよ、大変なエネルギーと時間を消費する営みであることが分かった

文系の方は翻訳を仕事のようにやっているように見える
科学の世界では考えられないことだ
他人事ではあるが、自分の仕事をやる暇はあるのか心配になる
ある程度実績を積んだ方や引退後の方がやるべき仕事ではないだろうか


午後から外に出てプロジェに当たる
最近顔を出すようになったカフェで声を掛けられた
いつもパソコンの画面に向かって何やらやっている姿は目に留まっていたようだ
自分では意識していないが、周りから見れば完全に異質な存在なのだろう
浮いているというあの状態である
以前にもこういうことがあった

数日前も来て執筆していたようですが、作家ですか?と訊いてきた
いいえと答えたが、その後が続かないので、哲学者です、と付け加えてみた
この国では少しは評価が違うのではないかと思い、、
そのためかどうかは知らないが、その後、いろいろと話が続いた