2018年1月27日土曜日

環境とのディスタンス



早朝シャッターを開けると、外は久し振りに霧に霞んでいた
先日のホストとの話に出ていたことを思い出す
ずっと以前から気付いていることなので、もう意識しなくなっていることである
何故か分からないが、こちらにいると「よく考えられる」状態になる
そのことが話題になったのだ

わたしの考えでは、まず言葉の問題がある
よく分からないもので囲まれているという感覚が生まれる
そして、見慣れない景色とその中にいる異なった動きをする人達
これらが日常の意識から遠ざけ、自らに還ることを自然に強いているのではないか
日本の土を踏むと直ちにデフォルトが日常になるのを感じることができる

彼はそれを一言でディスタンスですね、と言った
自分も日本に行けば同じようになるのではないかと想像できるとのこと
それは文化的には似ているが明らかに異なるヨーロッパの他の国に行っても同じだという
ただ、アメリカは特別のようだ
瞑想的にはなれないという
わたしも同じことを感じていたので同意する

わたしがフランスからアメリカに行った時の印象を簡単に纏めれば、次のようになる
アメリカは歴史が浅いこともあり、過去に目が行かない
その余裕がなく、いつも「いま・ここ」に注意が集中している
常に時間に追われていると言ってもよいだろう
意識が一・二層止まりなのである
これでは瞑想的になりようがないのもよく理解できる


午後から外に出た
シェール川の水嵩は確かに増えていたが、溢れるところまではいっていなかった
ロワールも同じような感じなのだろう




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