2018年1月13日土曜日

パリの後は形而上学



昨日は小雨の中を朝からパリへ
パリもどんよりと曇っていた
無事に用事を済ませて日帰りした

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我々にとって、二つの世界がある
エゴの哲学とコスモスの哲学がある

一つは我々の前にあるもの、そこに開かれているもの
コギト、主体、存在、時間性、ダーザインの哲学
デカルト、カント、サルトル、フッサール、ハイデッガーの哲学である

もう一つは我々とは関係なく存在し、我々を取り巻いているもの
他者と共にいる住まいのようなところ
存在、生成、時間、コスモス、絶対の哲学
スピノザ、モンテーニュ、古代ギリシアの哲学である


哲学は現実の全体についての真理を探究する
それは制限のない無限の世界である
親や師の教えや宗教を信じていると真理の追求にはならない
制限が加わる有限の世界になるからである

デカルトの無限は神であった
スピノザもそうだったが、そこに「即自然(sive natura)」を付け加えた
わたしもそうしたい
世界は我々がいる住まいである

しかし、その境界はどこにあるのか?
我々を取り囲む世界はさらに大きなものに取り囲まれている
エピクロスは我々の世界の果てを星に見た
しかし、こんにちではそれを遥かに超えるところまで行っている

デカルトは無限という「概念」について語った
しかし、それは単なる「概念」ではない
人間は天使がその上を飛ぶように自然の外にはいないことを知っている
いつでも人間を全滅させることができる力に完全に依存していることを感じている
パスカルの「人間は考える葦である」の一節がある
「その葦は自然の中で最も弱い。しかし、それは考える葦である。それを押し潰すためには、全宇宙が武装する必要はない。蒸気、水滴一つで人間を殺すのに十分である。しかし、宇宙がそうしたとしても、人間は殺す側よりも高貴である。なぜなら、人間は死ぬことを知っているが、宇宙は人間に対する優位性を何も知らないからである」
これは神の問題ではなく、高貴さでは人間に劣る力の問題である
なぜならその力は自分のしていることを知らないからである

主体の哲学は人間の現実の存在を捨象している
哲学者は単なる「主体」ではなく、人間を感じなければならない
自然の一部、それも考える一部であることを感じなければならない
それこそが哲学の初めである
しかし、それは初めにしか過ぎない




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