2018年1月30日火曜日

カタツムリの歩み

     クラクフ中央広場にて(2009.4.15)


昨日も曇りと雨だった
今日は曇りだったが、雨が降っていないので外に出ることにした
アパルトマンに留まると、どうしても瞑想の中に遊ぶことになる
これまでの慣性から、それはなかなか捨てがたいのだが、、

プロジェを3つほど抱え、並行して進めようとしている
頭の切り替えが必要になるが、それには昼寝が効果的であることが分かった
しかし、それ以上の問題は体力だろう
比較的長いスパンのものになりそうなので、すぐに成果を期待するとネガティブに働く
どのようにやるのがよいのか、その型はまだ定まっていない
生物の歴史がそうであったように、試行錯誤を繰り返すしかなさそうである




2018年1月28日日曜日

渡辺一夫、桑原武夫、大岡昇平、堀田善衛、加藤周一を観る



本日も曇り時々雨
淡々とプロジェに当たる
夜、若い時に耳にした「知識人」と呼ばれていた人の話を聴く
話し言葉でよく分かる人とそうでない人がいる
しかし、数や量ではないところに思考の基礎を置き、批判精神に溢れている
最近、とみに薄れてきているように見える点だ
「もの・こと」に向き合う姿勢に教えられるところが少なくなかった



2018年1月27日土曜日

環境とのディスタンス



早朝シャッターを開けると、外は久し振りに霧に霞んでいた
先日のホストとの話に出ていたことを思い出す
ずっと以前から気付いていることなので、もう意識しなくなっていることである
何故か分からないが、こちらにいると「よく考えられる」状態になる
そのことが話題になったのだ

わたしの考えでは、まず言葉の問題がある
よく分からないもので囲まれているという感覚が生まれる
そして、見慣れない景色とその中にいる異なった動きをする人達
これらが日常の意識から遠ざけ、自らに還ることを自然に強いているのではないか
日本の土を踏むと直ちにデフォルトが日常になるのを感じることができる

彼はそれを一言でディスタンスですね、と言った
自分も日本に行けば同じようになるのではないかと想像できるとのこと
それは文化的には似ているが明らかに異なるヨーロッパの他の国に行っても同じだという
ただ、アメリカは特別のようだ
瞑想的にはなれないという
わたしも同じことを感じていたので同意する

わたしがフランスからアメリカに行った時の印象を簡単に纏めれば、次のようになる
アメリカは歴史が浅いこともあり、過去に目が行かない
その余裕がなく、いつも「いま・ここ」に注意が集中している
常に時間に追われていると言ってもよいだろう
意識が一・二層止まりなのである
これでは瞑想的になりようがないのもよく理解できる


午後から外に出た
シェール川の水嵩は確かに増えていたが、溢れるところまではいっていなかった
ロワールも同じような感じなのだろう




2018年1月25日木曜日

洪水警戒、そして締切りの意味



今日も朝から雨で、本当によく降るなあと思っていたところ、大使館からメールが届いた
いつも貴重な情報を提供してくれる
最近ではテロに関するものが多かったが、今回は天候に関するものだった
そのメールによると、次のようなことが進行中とのこと

1.ここ数日の雨量により河川が増水を続け、一部の地域では洪水被害が発生している
セーヌ、ローヌ、ソーヌ及びその支流が危ないとのこと(幸いロワールは入っていない)
既にフランスの23県では上から2番目の「オレンジ」洪水警戒情報が出ているようだ

2.セーヌの水位は25日朝6時の時点で5.41メートル
週末に向けてさらに増水が続くと予想されている
2016年6月のパリ洪水被害(水位6.10メール)に匹敵する水準になる可能性がある
同川沿いの道路の一部が冠水により封鎖されている
また、ルーブル美術館のイスラム美術展示場部分も一時閉鎖されている

3.パリ郊外のビルヌーブ・サン・ジョルジュでは、洪水被害が発生
市民の避難支援のために軍が展開する予定とのこと
サン・ジェルマン・アン・レール・ペックの間では川幅が2倍に広がっているようだ


本日は籠って粛々とプロジェに当たる
外的に締切りが決まっているものは致し方ない
しかし、そうでないものまで無理に締切りを設ける必要はあるのだろうか
そこには量とか効率の発想が入り込んでいるのではないか
雨を眺めている時、期限など意識しない方がその中にじっくり入ることができると感じる
これからの指針にしたい




2018年1月24日水曜日

フランスの哲学界



今日は久しぶりに大学でわたしのホストと話をすることができた
いろいろな話題が出たが、その中の一つにフランスの哲学界の問題がある
彼はまだ40代だと思うが、若手から見たフランス哲学の現状が見えてきた

近代フランスにおける哲学教育の基礎を築いたのはヴィクトール・クーザンであると言われる
ソルボンヌには彼の名を冠した哲学図書館がある
そのやり方は哲学の歴史を大切にし、過去の思想を理解することに力が注がれる
その流れは現在の大学にも及んでいて、過去を見るのは重要だがそこに留まっている
そういう伝統を引き継ぐ人が大学の哲学科に残ることになっている
権威主義的になりがちなやり方である 
それは哲学の幅を自ら狭めていることになるのではないか
現在の問題に向き合っていないのではないかというのである

今やあらゆる分野で哲学的思考が必要とされている
それなしには、まともな生を営むことは難しい
そのことに気付けば、哲学者が至る所で求められるはずである
大学では哲学科に限らずということであり、社会においても然りである
しかし、過去や海外の哲学の紹介に終始している限り、その役割は担えないだろう
哲学という枠の中で何やらやっているだけに終わるだろう

哲学は本来専門に囚われない開かれた思考をするものである
わたしはそう理解している
しかし、フランスでもそうはなっていないようである
日本の状況はよく分からないが、あまり変わらないのではないかと想像している

歴史を学ぶことは重要である
しかし、それを「いま」にどう生かすのかが問われている
月並みだが、結局はそこに行き着くことになる
そう言うことは簡単だが、それができるのかどうかが問われる




2018年1月22日月曜日

西部邁氏と意識の第三層



本日も朝から雨
この週末も曇り時々雨で外に出る気にはならず、籠ってゲラ読みを続ける
第4章までの70ページほどを終えることができた
そこで気づいたのは、そこにあるのがかなり昔に訳したもののように感じられることである
今月初めに見直しが終わったにもかかわらずである
さらに言えば、それは自分が訳したもののようには見えなくなっている
これは想像していなかったことである


この週末には西部邁氏が亡くなったというニュースも目にした
科学者をしている間は名前だけは存じていたが、どういう考えの持ち主かは知らなかった
興味が湧かなかったということだったのだろう
そしてこちらに来て暇を持て余している時、その主張が耳に入ってきた
言いたいところはよく分かるというのが最初の感想であった

最近、啓蒙主義と反啓蒙主義についてエッセイで取り上げた
その分類で行けば後者に属する考え方を主張していたことになる
科学や進歩に不信感を持つ考え方である
その背景にある「もの・こと」に対する態度で気付いたことがある
それは、わたしが言う「意識の三層構造」と第三層の重要性との関連でのことである

第一層は日常生活で使われる意識で、第二層は専門領域の思考が行われるところである
それに対する第三層は、第一・二層以外の思考が行われる領域である
そこで対象になるのは、人間そのものと言ってもよいだろう
そこで行われるのは歴史、文学、哲学などへの参照である
この第三層における思考が「もの・こと」の深い理解にとって重要になるはずである
しかし、科学技術が優勢な近現代においては、それが無視されるようになっている
殆どの思考が第二層止まりなのだが、そのことに気付けない
第三層が萎縮しているからである
真の意味での思考が行われない世界になっているのである

言い方は異っているが、西部氏の主張はわたしのものと重なることが見えてくる
つまり、第三層を使って「もの・こと」に当たりなさいということである
過去を参照した上で、「いま・ここ」を見なさいということである





2018年1月19日金曜日

ゲラ届く



今日も午前中は曇り時々雨だったが、午後からは晴れてくれた
今年初めに見直しが終わった翻訳だが、本日最初のゲラが届いた
想像していたよりは早いペースである
原書では本文が300ページだが、日本語版では375ページになっている
これからその校正をやらなければならない

早速、最初の方を見てみたが、イメージしていたものとは全く違うものになっている
横書きが縦書きになっていることもあるだろう
それから、毎月エッセイを書く段階で気付いていることと関係していることもある
パソコンの画面で見ている時とそれをプリントした時では見え方が違う
より客観的に見ることができるようになっているのだろう
それがゲラになるとさらに広い範囲にまで目が届くようになる
今回もそういうことなのだろうか
問題は、それでもそこにあるのに目に入っていない間違いがあることだ

編集者も同時に校正に入るので、見逃しを最小限にできるのではないかと期待したい
この作業が終わった後、再度ゲラを作り、見直しをやって終わりになるようだ
正確で読みやすいものになるように力を尽くしたいものである





2018年1月18日木曜日

鴨長明、松尾芭蕉、内村鑑三、石牟礼道子を観る



朝は曇りと雨、午後から晴れたかと思ったら曇り、そして雨
というような目まぐるしく変わる空模様がこのところ続いている

今日は「100分de名著」数編を観て日本を勉強する
鴨長明『方丈記』、松尾芭蕉『奥の細道』、内村鑑三『代表的日本人』、石牟礼道子『苦海浄土』
いずれも非常に新鮮で、大いに勉強になった





2018年1月15日月曜日

晴れの日の次は雨、そして哲学者を読む



昨日は朝から気持ちの良い晴れとなってくれた
そのため、予定したことをやる気にならず、陽の光に身を任せていた
久し振りのことである
今日は打って変わって曇り時々雨だったが、午後からの雨は結構激しかった

夜、コンシュ・形而上学の第2章「哲学者」を読む

わたしは哲学的問いに向き合ってきた
他のことには心からの興味を感じなかったからだ
かりそめの恋もわたしの道をそらすことはできなかった

哲学における一つの重大な真理はコギトであると考え、デカルトについて書いた
この見方をフッサールを読んで確信した
その中には1947年に出た『デカルト的省察』(エマニュエル・ルヴィナス訳)があった
「すべての根源的哲学が基盤を置くべき究極の、論理必然的に確実な領域である『エゴ・コギト(われ思う)』への回帰」
この必要性の肯定がわたしの心を捉えた
すべての若い哲学者と同様、わたしも「根源的な」哲学だけを欲していた
それは「論理必然的で、それ自体として根本的な証拠」に基づいていなければならない
「われ思う、故にわれ在り」のものに過ぎないことは言うまでもない
フッサールは「われわれが自分自身で見ない」ものについて語るべきではないとも言った
神は見えなかったが因果律による推論で結論されたので、デカルトに従う必要はなかった
彼が神について語る時には





2018年1月13日土曜日

パリの後は形而上学



昨日は小雨の中を朝からパリへ
パリもどんよりと曇っていた
無事に用事を済ませて日帰りした

コンシュの「哲学者になる」の続きを読む

我々にとって、二つの世界がある
エゴの哲学とコスモスの哲学がある

一つは我々の前にあるもの、そこに開かれているもの
コギト、主体、存在、時間性、ダーザインの哲学
デカルト、カント、サルトル、フッサール、ハイデッガーの哲学である

もう一つは我々とは関係なく存在し、我々を取り巻いているもの
他者と共にいる住まいのようなところ
存在、生成、時間、コスモス、絶対の哲学
スピノザ、モンテーニュ、古代ギリシアの哲学である


哲学は現実の全体についての真理を探究する
それは制限のない無限の世界である
親や師の教えや宗教を信じていると真理の追求にはならない
制限が加わる有限の世界になるからである

デカルトの無限は神であった
スピノザもそうだったが、そこに「即自然(sive natura)」を付け加えた
わたしもそうしたい
世界は我々がいる住まいである

しかし、その境界はどこにあるのか?
我々を取り囲む世界はさらに大きなものに取り囲まれている
エピクロスは我々の世界の果てを星に見た
しかし、こんにちではそれを遥かに超えるところまで行っている

デカルトは無限という「概念」について語った
しかし、それは単なる「概念」ではない
人間は天使がその上を飛ぶように自然の外にはいないことを知っている
いつでも人間を全滅させることができる力に完全に依存していることを感じている
パスカルの「人間は考える葦である」の一節がある
「その葦は自然の中で最も弱い。しかし、それは考える葦である。それを押し潰すためには、全宇宙が武装する必要はない。蒸気、水滴一つで人間を殺すのに十分である。しかし、宇宙がそうしたとしても、人間は殺す側よりも高貴である。なぜなら、人間は死ぬことを知っているが、宇宙は人間に対する優位性を何も知らないからである」
これは神の問題ではなく、高貴さでは人間に劣る力の問題である
なぜならその力は自分のしていることを知らないからである

主体の哲学は人間の現実の存在を捨象している
哲学者は単なる「主体」ではなく、人間を感じなければならない
自然の一部、それも考える一部であることを感じなければならない
それこそが哲学の初めである
しかし、それは初めにしか過ぎない




2018年1月11日木曜日

哲学者になるとは?



昨日の午後、それまで陽の光が見えていた空が急に曇り、やや激しい雨となった
そんな中、それまでラグビーをやっていた幼稚園児が止めるかと思ったが、続けていた

今朝シャッターを開けると、もう小学生がグラウンドの周りを走っている
それを見ているまだのんびりしたい人もそろそろ動き出してはどうか
そんな声が聞えた
ということで、徐に新たなプロジェに向き合うことにした

その一つに形而上学について改めて考えてみるというのがある
これまでにいろいろなものを読むうちに、自分の中でのイメージはできつつある
そのイメージをより明確な形にできないかという魂胆である
まず、昨年マルセル・コンシュ氏から推奨されたご本人の『形而上学』を読むことにした

第1章では、「哲学者になる」とはどういうことなのかを論じている

普通の人は、仕事をして社会における役割を果たしている
自らの状況や人間とは何かなどの問いには向き合うことなく
それに対して哲学者は、社会から距離を取り、孤独の中にいるという選択をする
哲学者と哲学研究者との違いもここで明らかになる
哲学研究者とは学生の相手をするという社会的な仕事をしている普通の人なのである
コンシュ氏によれば、哲学とは社会の要求に応えるものではないという
人間の問題とは、もの・ことの全体における人間の意味である
現実の政治的決断や歴史には何の関係もない

それから、哲学とは宗教が思考に影響を与えないところでのみ存在し得るとしている
そのような状態にあったのは、古代ギリシアしかない
子供の精神を縛ることなく、自由に思考できるようにしていたからである
前もって与えられた「真理」がなかったのである
その意味では、哲学者になるということは、古代ギリシア人になるということである
近代の哲学は、デカルトもカントもヘーゲルも「神学化された」哲学であった
しかし、宗教との和解は哲学と真理を犠牲にしたのである

哲学者は次のようなものから離れなければならない
欲望、名誉、金銭、栄光、意見、幸福、気晴らし
ただ、哲学者の孤独は人がいる中での孤独である
自分自身との会話があり、過去や現在の哲学者との会話もある
ご本人もいろいろな哲学者について書いてきた
しかし、読み過ぎると人文科学や博識の中に入り込み、哲学者から離れることになる
勿論、研究することを否定しているのではない
哲学的活動を阻害するものから離れよ、と言っているに過ぎない





2018年1月8日月曜日

今年の仕事始めか?



今日は気分を入れ替えての仕事始めのような感じだった
日本は明日からのようだが、、
午前中に用事があり、外に出る
すんなり終わった後は、そのまま場所を2回変えてプロジェに当たる
週末ゆっくりしたせいか、非常によく集中できたようである
この調子が持続するとよいのだが、なかなかそうは問屋が卸さない





2018年1月5日金曜日

新年の便り



相変わらずの曇り時々雨だ
夜、雨も上がり、向かいのグラウンドがライトアップされた
緑が眩しい
新年の練習始めだろうか

こちらに来て数年してから新年の挨拶を止めてしまった
失礼が続いているが、そんな中、挨拶をいただくことがある
今回、複数の現役の研究者が同じことを言っていたので驚いた

わたしが毎月書いているエッセイを読んでいただいているとのこと
普段はなかなか読む時間が取れないという
仕事をしている時は頭の使い方が違っている文章は読む気にならないのかもしれない
自らを振り返ればよく理解できる

ところが、この休みに纏めていくつか読んでみたという
そうすると、間隔を空けて読んでいる時には分からなかったことが見えてきたという
しかも、それぞれが繋がっているというのだ
自分の書くものがどのようなものなのか、自分ではなかなか分からない
そういうものかと思って感想を読んでいた

今日一番驚いたのは、10年以上前に日本で知り合ったフランス人から挨拶が届いたことだ
調べて見ると、記事が出てきた
こちらに来る1年前のことなので、まだ先は見えていない時期のことである
読んでいると、当時の心象風景が蘇ってきた

エミール・シオラン EMIL MICHEL CIORAN (2006-08-04)

その後フランスに戻り、これから韓国でフランス語教師をするという時にも会っている
それ以来のメールである
今度、7年振りに帰国して、高校の先生を始めることにしたという
そのうち再会ということがあるかもしれない
この世は不思議なものである




2018年1月4日木曜日

今年最初の振り返り




連日の曇りと雨で少々嫌になっている
去年の正月はどうだったかと読み直してみたら、同じような愚痴が書かれていて驚いた
この町の正月はそういう天気なのだろう

今年を思い描いてみる
どうも振り返りの年になりそうな予感がする
昨日プロジェが終り、今日はゆっくりしていた
その予感に従ったわけでもないだろうが、このプロジェの過程でメモしたものを読み返す
通して読むのは初めてだったが、感得したポイントがよく分かった




2018年1月3日水曜日

今年最初のプロジェが終わり、一段落



今日は朝の内晴れ上がってくれたが、午後からは予報通り曇ってきた
年末年始も追われていたプロジェが今日で一段落した
予定より若干早く終えることができた
延べ期間とすれば2年を超えるものだったが、まだ終わっていない
依頼されたとはいえ、大変なものに取り掛かってしまったものだ
ただ、それまで想像もしていなかった領域なので貴重な経験になったことは間違いない
これで中断されていたプロジェに当たることができそうなのだが、、





2018年1月1日月曜日

新年のトゥール



新年のトゥールは雨、午前中に雷雨となった
しかし、午後からは雨も上がり、静かになる
そんな中、プロジェに終われる年の初めとなった
何とか予定通りに進んでいるが、今週いっぱいはかかりっきりにならなければならない
どうもこれが今年を象徴する日常になりそうな予感がする

去年の元旦の記事を読み直してみると、早々に外に出ている
そして、プロジェのことが出ている
それがどんどん強まってくるのが去年だったと言えるだろう
どうもこちらに来る前の状態に戻りつつあるようだ


ヨーロッパでの10回目の正月を迎えて (2017.1.1)