2017年1月31日火曜日

続くシンクロニシティ?



今日は朝から雨
その雨の中をいつものように小学生は走っている
こちらの人が雨を気にせずに歩いているのは、子供の時からの訓練の賜物なのだろうか
ただ、わたしもこちらに来てからそうなっているので、必ずしもそうとは言えないのかもしれない

ということで、今日は一日籠ってプロジェを当たることに
忍耐力が試される日になった
少しは前に進んだと思いたい

ところで、昨日シンクロニシティのような現象について触れた
今日手に取った本の開いたページが「共時性とは何か」という章だったので、再び驚く
その本は湯浅泰雄という方の『宗教と科学の間』であった
全ては偶然だという人と、そこに意味を見出そうとする人で意見が分かれるのだろうか
いずれにしても、注意深く見ていると、意味のあるなしに関わらず、このような現象は認められる
忙しくしていると、気にかけず忘れ去られているだけではないかという気がしているのだが、





2017年1月30日月曜日

取り留めのない一日



朝のうちは薄曇りだったが、午後から明るくなってきた
と思っていると、外から元気のよい歓声が聞こえてきた
応援団のいる試合である
なぜか春の訪れを感じる
元気の出る時間となった

今朝は以前に読んだテクストを読み直していた
読み直すことはいろいろなことを教えてくれる
さらに言えば、何ごともやり直さなければ身に付かないということかもしれない
やり直す過程は考える過程でもある
つまり、身に付けるためには振り返らなければならないということになる

今日は休息日と決めたのか、日本のドキュメンタリーをのんびりと数編観る
そして、現在翻訳中の本の著者とご挨拶のメール交換をする
フランスにいるのであれば一度会って話をしてもよいのではないかとの提案をいただいた
著者の声を直接聞くことは、訳す時に大きな助けになると前回感じた
これから進み具合を見て、パスツール研訪問のことも考えてみたいものである


-----------------------------------
lundi 30 janvier 2017

昨夜寝る前に読んだ本の中に、この記事に関係する言葉が出てきて、いつものように驚く
ホワイトヘッドがこう言っているという
"Fundamental progress has to do with the reinterpretation of basic ideas."
(根本的な進歩は基本概念の再解釈と関係している)
ひょっとすると、創造の秘密も「再」の中に隠されているのかもしれない

昨日はこの他にも、これからを考えている時のこと
三桁の数字が浮かんできたが、同じ数字がその後に観たドキュメンタリーの中に現れたのである
このようなことが頻繁に起こっていることに気付くようになっている






2017年1月29日日曜日

アンボワーズ訪問

     アンボワーズ城 (Château d'Amboise)

本日は友人の案内でアンボワーズ訪問となった
幸いそれほど寒くもなく、曇っていた空にも晴れ間が見え、まずまずの散策となった
まず、駅から南に向かいロワール川にかかるマレシャル・ルクレール橋を渡る
川岸に像が見えたので、そこに向かう(その写真は後ほど)


 
     クロ・リュセ城 (Château du Clos Lucé)

最初に、ダ・ヴィンチ終焉の地となったクロ・リュセ城に行ってみることにした
広い敷地には緑溢れる空間が広がっていた
ダ・ヴィンチはここに最晩年の1516年から亡くなる1519年までの3年間を過ごした
フランソワ1世の招きであった 
彼は2歳で父を失っていたので、ダ・ヴィンチの中に父を見ていたようである
この地でのダ・ヴィンチ滞在500年を記念して、去年から行事が行われているようだ


 
    お城の食堂には簡素な食事が置かれていた



    サン・ユベール礼拝堂(Chapelle Saint-Hubert)

それからアンボワーズ城に向かった(冒頭の写真)
こちらも広大な敷地で、その中にサン・ユベール礼拝堂もあった
本当に礼拝するだけの小さな空間で、そこにダ・ヴィンチの墓もあった


  ダ・ヴィンチの墓(La tombe de Léonard)

ダ・ヴィンチが亡くなった後、近くのサン・フロランタン教会に埋葬された
しかし、200年以上前にほぼ完全に破壊された
1863年の発掘で骨が見つかり、現在のサン・ユベール礼拝堂に新たに埋葬されたようだ
ただ、当時の同定方法に疑問もあり、現在最新の技術を用いて検討中だという


   サン・フロランタン教会(Église Saint-Florentin


     アンボワーズ城のダ・ヴィンチ

 
     アンボワーズ城からロワール川を望む

ロワールにできた中島「イル・ドール(金の島)」の木の下に青銅色の像が見える
拡大すると以下のようになる


    ロワール川沿いのダ・ヴィンチ像



お城に繋がる敷地の下に当たるのではないかと思う
そこの縁に当たるところが削られて崖のようになっている
そこを掘るようにして何軒かの家が作られていた
私有地なので入ることができなかったが、観光客も興味津々の様子で話を訊いていた


こじんまりした愛すべきお店と空間が溢れる町であった
トゥールから30分ほどでタイムスリップしたような一日であった
それは想像の中にあったこの町のイメージを一新させるものでもあった




jeudi 2 février 2017

昨年4月にトゥールを訪れた際、ダ・ヴィンチの500年記念祭の案内を見ていたことを思い出した

 好印象と共にパリへ  (2016.4.17)

その時に思い描いていた隣町のイメージが、おそらく「想像の中にあった」ものではないだろうか
それが今回具体的なものに置き換えられ、一新されたということになる





2017年1月27日金曜日

7年振りの授業、そしてヴィクトリア・トルストイさんが現れる



授業を受けるというのは久し振りだ
正確にはマスターが終わった2009年秋以来なので、7年振りということになる
本日、週一回2時間の口と耳によるフランス語の授業が始まった
効果があるのかどうかは分からないが、三か月ほど様子を見ることになる
ただ、外の世界に俊敏に対応する態勢を内に作るという点では意味があるのではないだろうか
外の世界に素早く反応するだけでは駄目だと気付いてこちらの時間を始めたのだが、、

教室は様々な国から来た学生さんが十数人
モンテネグロ、セルビア、スペイン、メキシコ、韓国、スコットランド、ドイツ、それに日本と多彩だ
わたしの他には日本人はいなかった
男が4人で、後は女子学生
兎に角元気がよく、お喋りだ

4か国語に馴染んでいる人は3人ほどで、3か国語は普通だ
なぜトゥールだったのかという問いには、この地域のフランス語が標準的だからというのがあった
これはわたしも日本にいる時に聞いたことがあった
今日の後半はトゥールが話題になっていた
皆さん、気に入っているようであった
わたしも気に入っている旧市街(les Vieux-Tours)だが、そこの広場の名前を今日初めて意識した

Place Plumereau プリュムロー広場

聞き取りのビデオでは、Greeter が話題になっていた
20年ほど前にニューヨークで始まったという地元の人が観光案内をするものである
ウィキによれば、世界で150ほどの都市がこれを取り入れていて、トゥールもその中に入っている
日本でも似たようなものがあるが、グリーターという言葉はホテルなどで出迎える人となっている
トゥールの町をまだ「観光」していないことに気付く
初回ではあったが、少し外に開かれてきたように感じる

帰りのバスでのこと
降りようとした中年男性に席を譲られる
お断りしたがどうしてもということで座った
自分で思っているよりは、年相応に見えるということだろうか
こんなことは初めてで、困ったことである


夜、こちらも久し振りのジャズ・チャンネル行くと、Viktoria Tolstoyという歌手が歌っている
早速調べてみると、文豪トルストイの玄孫になるスウェーデンの歌手であった
最近、トルストイをエッセイで取り上げたばかりだったので、直ちに反応したようだ
いくつか聴いてみたが、爆発しない静かな歌い方である

  When all is said and done
 Against All Odds

Official Site




2017年1月26日木曜日

作曲家ユリウス・レントゲンに出会う

   Julius Röntgen (1855-1932)


昨夜はトランプ大統領のDHS(アメリカ合衆国国土安全保障省)での演説を聴く
そのポイントは、次のようなことだった

国境のない国はない
国内に不法に入ってきている中にはギャングやカルテルの人間もいる
そのために命を落としている人もいる(その犠牲者を会場に招待していた)
メキシコとの間には壁を作る
メキシコの経済がよくなることは、アメリカの国益にも合致する
そのためにメキシコの大統領とはよく話をしたい
アメリカ国民の命を守るために新法は必要ではない
今の法をしっかり守って事態に対処したい

ごく当たり前のことを言っているようであった
レトリックを弄するのではなく、get to the point というか、問題の核心に一気に入って行く
ビジネスライクと言えないこともない
しかし、問題解決だけを求めている人にとっては魅力的に映るのではないだろうか


このビデオを見ているその横に分野違いの見たような見たことがないような人の名前が現れた

ユリウス・レントゲン

ライプチヒ生まれだが、オランダに帰化したというピアニストにして作曲家である
初めての方だ
生涯で650に及ぶかという作品を残している
多作である 
25の交響曲、7つのピアノ協奏曲、3つのバイオリン協奏曲、室内楽、ピアノソナタなどを含んでいる
ヴィルヘルム・レントゲンとは従弟同士であった
何曲か聴いてみることにした

Ballad for violin and orchestra
Symphony No. 8





2017年1月25日水曜日

実験経済学のセミナーを聴く

  Prof. Luigino  Bruni (Lumsa U., Rome, Italy)


今日は朝から大学へ
ローマの経済学の先生のお話を聴くためである
新年会でお会いしたイタリアからの留学生の論文審査をする方らしい
日本では見かけない底から明るいタイプだが、その中に明晰さをとどめている
ヨーロッパはイタリアのインテリという印象だ
英語での発表だった

経済学も今は実験経済学が盛んなようで、今日もそのお話だった
行動経済学の中に入る分野らしい
今では神経経済学というものまであり、こちらの研究室でもやっている方がいるようだ

実験はマウスの代わりに学生を実験材料?として使っていた
とは言っても、コンピューターの画面に向かって、ある設定の中で選択するのが実験であった
実験参加費はちゃんと支払っていると言って具体的に示していた

実験には相手への信頼や判断の損得というような意図や意志や直観が関与するものだった
そのため、実験のデザインを毎回一つのパラメーターだけを見るように設定しなければならない
人間が絡むと、一つの行動の裏にいくつもの要素が絡んでくるので、そこが難しそうだった
マウスでは意図などが絡む実験はありますか?などと参加者に訊いていた

内容をよく理解したとは言い難い
ただ、理論が予測するより、人間は相手を信頼する傾向が強いというのが結論のようだった
最後に、論文を投稿した雑誌の編集長とのバトルの様子を話していた
もうすっかり忘れていた世界を思い出す
これがないだけでもどれだけ精神衛生によいか分からない
セミナーはGrazie!で終わっていた




今日はどんよりと雲が垂れ込めた寒い日だった
大学の事務の方は、très を三つ付けて寒いと言っていた
つい最近まで市庁舎前の噴水は元気だったが、今日はこの通り
パリのアパルトマン近くの噴水はちゃんと水抜きをしていたが、ここではそれをやらないようだ
その寒さの中、グラウンドでは幼稚園児がラグビーに興じていた






デカルトを近くに感じる



今朝も霜が降りていた
空が雲に覆われているためか、冷え込みがきついためか、その白はなかなか消えなかった
午後、用事があり街に出る
ちょっとした問題が出たが、すんなりと片付いた
この町では何かあっても必ず解決するという確信のようなものが生まれつつある
強く働きかけることもなく

帰りには素晴らしい夕焼けも拝むことができた
写真では伝えられない広い空に描かれていた
アグレアーブルな町と言えそうである


今夜はデカルトの『方法序説』を手に取った
昨日との繋がりになるが、デカルトも役者よりは観客として生きたいと考えていた
その他にも共通点をいくつか見つけることができた
勿論、それは中身ではなく、やり方や認識についてということになるのは言わずもがなではあるが

例えば、40代の彼はこれからの生き方についてこう書いている
「わたしは生きるために残っている時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使うまいと決心した」
それから僅か十数年の人生ではあったが、その意思を貫いたことと思いたい
わたしの場合、こちらに来る前は「持てる時間のすべてを使って考えること」を欲していた

デカルトは名声が自らの探究の邪魔になることを知っていた
オランダに隠れることにしたのもそのためだろう
彼のモットーは Larvatus prodeo (わたしは顔を隠して進む)だった
その気持ちはよく分かる
露出した人たちの思考に成熟を見ることは稀で、寧ろ腐敗が進む傾向さえあるからだ

彼はガリレオの裁判の行方を見て身の処し方を決めていた
同じような運命になる可能性がある本の出版を控えたのである
それを弱さと見る人もいるが、 活動を阻害するすべての要因を避けたかったのだろう

そう言えば、スートゥナンスのコメントの中にデカルトを評したシャルル・ペギーの言葉があった
それがなぜだったのかは分からない
しかし、デカルトとどこかで繋がっていると思いたい

これまで何人かの哲学者を近くに感じてきたが、新たにデカルトが加わったことになる








2017年1月24日火曜日

意識の第三層、美、そして観ること



今日は快晴で、寒さも緩んでいた

今夜は唐木順三著『「科学者の社会的責任」についての覚え書』を手に取る
4年ほど前、成田からパリに戻る機内で読んだことになっている
中味はあまり覚えていない
おそらく、今ではよく言われることが書かれてあったからではないだろうか
問題はどうするのかということになる

『朴の木』改版にあたって、というエッセイを読み直してみた
大きな問題として人間の退廃が指摘されている
その中に、教師に望むこととして次のようなことが語られている
――政治的、社会的に考えるだけではなく、人間として、自分の問題として考えてほしい――

これが行われていないことが人間の退廃にも結び付いていると思われる
この現象は、意識の三層構造理論で言う第三層の(活動の)欠落として説明できるだろう
これは本編で論じられている問題の解決にとっても重要になるはずである
自らの深いところに返ってものを考えることができるのかという問題である
そう言うことは簡単だが、実行は至難の業である
そもそも第三層が何たるかをイメージできなければ、具体的な実行には向かえないからだ
深いところがどこなのかが見えてこないからである

それから、「真・善・美」の中で美の復権を訴えている
科学で得られる「真」が絶大な力を持っている現代では、「美」が衰えているのではないかという
「美」の教育が求められると言っている
同じことは「善」についても当て嵌まるだろう
こちらは哲学になるのだろうか
この問題は最近のエッセイでも書いたばかりのテーマになる

最後に、「見ること」の重要性を説いている
そう言えば、最初のブログ「フランスに揺られながら」のサブタイトルがこれだった

"J'observe donc je suis." (われ観察す、ゆえにわれ在り)

デカルトに肖ってのフォルミュールである
あの数年間で観察を重ねていたことが、それ以降の基礎になっていたように見える
じっくり観ることが哲学の基礎にもなっていたように感じるのだ
それほど観ることは重要な運動なのだろう


「あとがき」を臼井吉見さんが書いていた
若い頃、あのまん丸いお顔と頭をテレビでよく見たことがあり、懐かしい
饒舌な印象しかなく、どういう立場を採っている人なのかは知らなかった





2017年1月23日月曜日

現代の哲学者の課題とは?



今朝、向かいの芝生には霜が降りていた
それもお昼には消え、鮮やかな緑が戻っていた
これからひと月くらいはこの寒さが続くのだろうか
ただ、日中は寒さをあまり感じない
先日のパリで感じたあの底冷え感は、風の強さのためだったのかもしれない

夜、小さな書庫となる部屋で見つけたこの本を摘み読みしてみた
哲学に何ができるか
廣松渉先生に五木寛之生徒が講義を受けるという形式の対談である
元々の対談は40年ほど前で、中公文庫に入ったのがその20年後
日常感覚ではかなり前のお話ということになるが、今のわたしの中に時差はない

タイトルの問いに対する答えがあるのかと思ったが、納得のいくものはなかった
最後の方で生徒が先生に哲学者の課題を訊いているが、明確な答えはなかった
考えてはいるけれども答えがないと先生は言う
それから、哲学者の苦闘の跡やその考えが広く伝わることはないのかと生徒は問い掛ける
まず、自分の仕事をどのように書くのかについて先生は迷っているようだ
これに対して、生徒の方は読者に媚びる必要などないのではないかと言っている
考え方としては五木氏に賛成である
ただ、本物の哲学書を一般に届けようとすると、やはり言葉の問題は大きいのではないだろうか
哲学の中に留まる言葉で書かれていると、特に現代では普通の人は手に取らないと思われるから






2017年1月21日土曜日

出るために入る



本日も快晴で快適である
ただ、寛容な心だけでは凌げない寒さが始まっているようだ

カフェでの時間の使い方、より正確にはカフェにいる時の意識のあり方について、考えが浮かんだ
これまでは終わりを全く意識しないで中に入っていた
それは永遠に縛られているという意識の中にいた院生時代の影響だろう
いつまでも解放されないのだから、眠くなることも稀ではない

今日、その意識を変えてはどうかという声が聞えた
結果としての2時間なり3時間の滞在になるのではなく、その時間だけと決めて入るのである
つまり、出るために入るのである
有限の中にいることが意識され、出る時には悦びさえ訪れるのではないか
その方がプロジェに集中できそうな気がしたのだろう

仕事と捉えることを始めると、こんな考えが浮かんでくる
困ったものである
仕事は人間を駄目にする、というわたしのテーゼがここでも顔を出す
捗らないかも知れないが、やはり永遠の中にいる方が魅力的に見える




米大統領就任式を観る



今日は快晴で気持ちの良い日だった
夕方、タイミングよく米大統領就任式の中継に行き当り、今観終わったところだ
トランプ氏の演説はこれまでの主張を簡潔に力強く訴えかけるものだった

忘れられた人を取り戻す
職を取り戻す
アメリカのインフラを取り戻す
アメリカをアメリカ人によって取り戻す

口だけで何もしない政治ではなく、アメリカをよくするために解決する政治をする
テロリズムを地上から殲滅する
アメリカを世界に押し付けるのではなく、アメリカ自らが輝き、モデルを世界に示す
アメリカの利益を第一に、再びアメリカを誇りを持てる偉大なアメリカにする

これができれば、アメリカも変わり、世界も変わる可能性があるだろう
今年は少しずつ庵から出て、世界の様子を注視したい





2017年1月20日金曜日

死とか病とか



昨日、パリからの車内で、以前にブログで触れたことのあるお二人が亡くなっていたことを知る
お一人は文学者のジョン・バージャー氏で、今月2日に90歳で亡くなっている
もうお一方は音楽家のジョルジュ・プレートル氏で、今月4日に92歳で亡くなっている
これらは必然の出来事だが、以前とは受け止め方が変わってきている
ベルギー出身のシャンソン歌手ジャック・ブレルさんは、人生で重要な日は二つしかないと言った
その一つが亡くなった日で、もう一つは生まれた日
その間にやることは大したことじゃない

ブログ記事はそれぞれ以下の通り
ジョン・バージャー、人生のスタイル John Berger, son style de vie (2009-01-23)
よいお年をお迎えください (2009-12-31)


今日はアメリカ大統領選の裏の(?)話題に行き当たった
ヒラリー・クリントンの病気のことである
9・11のセレモニーの際に体調不良で席を早く立ち、車に乗る時に足がもつれた映像が流れた
これは日本でも伝えられたのではないかと思う
しかし、ネット上にはその他にも普通ではない行動が何度も観察されたという情報がある
それは神経系の異常を思わせるものだという
こちらの方は日本では流されていないのではないだろうか
もしこれが本当なら、今回の選挙結果は彼女にとってもよかったのかもしれない


わたしがアメリカにいた時にレーガンが大統領に選ばれた
もうすぐ70歳を迎えるという1981年に就任式があった
その時は年齢が問題になっていた
わたしも大丈夫かなと思っていたが、結局2期務めた
レーガンと同じ予備選に出ていたハワード・ベーカーは背が低過ぎるのでは、などと言われていた
政治家は大変である

翻って今回の二人の候補を見れば、レーガンと同年代である
しかし、当時のような問題のされ方はなかったのではないだろうか
時代とともに、人間は若返り、活力を増しているように見える
先日見た映像では、トランプ氏が2期を目指すと軽口を叩いていたが、不思議ではない時代である

そう言えば、レーガンと同じ時期にニューヨーク州の上院議員の選挙があった
共和党の指名選ではジェイコブ・ジャヴィッツアル・ダマトの争いとなった
ジャヴィッツ氏は上院議員を24年も務めた重鎮だが、筋萎縮性側索硬化症の診断が下っていた
それでも出たのである
一方のダマト氏はまだ40代で殆ど無名だった
その彼が相手の病気を攻撃してきたのである
そのやり方が批判の対象になっていた記憶がある
実際にはダマト氏が勝ったが、致し方ない結果ではなかったのだろうか






2017年1月19日木曜日

やはりトゥールの方が暖かい、そして仏大統領選は?



パリは今朝も冷たい風が吹いていた
カフェに入っても隙間風が入ってくるのか、暫くすると体が冷えてくる
モンパルナス駅に行っても外と繋がっていて寒い
こちらの人は寒いのだろうが、しっかりそこに座っている
冬のカフェでも外に出ている人が稀ではない
感心するしかない

トゥールに昼過ぎに戻った
おそらくパリと同じ程度の寒さなのかもしれない
しかし、それ受け入れてもよいという気分にさせてくれる町なのだろう
用事があって店に入ってみたが、いつものように対応が人間的でゆったりしている
そんなすべてがこちらの天気に寛容な気持ちで向き合うことができるようにさせているのだろうか


夜、France 24 の大統領選についての番組に行き当たった
現段階では、国民戦線のマリーヌ・ルペンが強く、共和党のフランソワ・フィヨンがすぐ続いている
今年の台風の目は、まだ39歳の若さのエマニュエル・マクロンという左派の候補
社会党には属さず、独自の選挙戦をやっているが、その動員が兎に角凄い
参加者に熱がある
バーニー・サンダースの選挙を思わせる
セゴレーヌ・ロワイヤル、さらにはオランド大統領も支持するのではないかとの噂もある
左派の生き残りには彼に賭けるしかないという考えなのだろうか
現在社会党の予備選挙をやっているが、そこで選ばれる候補も敵わないのではないかという
これまでの決まりきった枠を出た、何かを期待させるものがあると思わせているのだろうか
支持率はまだ3位だが、これからどうなるか分からないとの分析がされていた
さらに、決戦投票での行方など今は霧の中とのこと
興味深い展開が見られそうである




2017年1月18日水曜日

冷え込むパリで、オスカー・ワイルドさんと出会う



今朝、パリで用事があり、暗いうちにトゥールを発つ
駅の照明が変わっていた
パリには10分遅れで到着
寒さのためとの説明だった

まず外に出て、寒いと感じる
パリはトゥールの北になるので致し方ないのか
トゥールも今日は冷え込んでいるのか
夕方、特に風の冷たさを感じた
こんな寒いところによくも住んでいたな、という感じである

住んでいる時には、これからアパルトマンに帰らなければならないなどと考えていた
それは少し面倒に感じていたことである
今日は違ったカルチエに1泊するので、メトロの使い方が異なってくる
そのズレが自由な感覚を呼び込んでくれる
これはなかなか捨て難い
パリが新鮮に見える

メトロではオスカー・ワイルドさんの言葉に出会った
今に通じる同質の二つの対比が指摘されている
用事も無事に終わり、明日トゥールに戻る









2017年1月17日火曜日

現実と願望の落差



本日も朝ははっきりしないお天気
ここの寒さは予想していたほどではないが、それでも寒いので外に出るには意志を要する
午後、青空が見えてきたので誘惑に打ち勝って旧市街へ
やはり、外に出た方がこの体は活性化される
街の景色やそこに出ている人間を感じることが「気」のような何かを与えてくれるのだろうか
気持ちよい時間となった
帰り道、わたしもお世話になった観覧車が店仕舞いをしていた
やはり、新年のヴァカンスは終わり、これから動き出さねばならないのだろう
一年中ぼんやりしていたい身には、心と体によくない認識ではある





2017年1月15日日曜日

サイファイ・フォーラムFPSSとベルクソン・カフェの日程を決める



サイファイ研究所ISHEでは今年新らたに二つの活動を始めることにしている
一つはサイファイ・フォーラムFPSS で、もう一つはベルクソン・カフェ(BC)である
FPSSは、科学者が哲学者などを交えながら科学について科学の外から議論しようとするもの
BCは、フランス語の哲学テクストを読みながら、哲学や生き方について考えようとするもの
その日程を以下のように決めた

FPSSは6月10日(土)午後、東京で開催
今回はこのフォーラムをどのようなものにしていくのかについて、ざっくばらんに語り合う予定
会場と時間は早めに決めることにしたい

BCの方は2回で一つのテクストを読むことにした
6月24日(土)、16:00~18:00、東京恵比寿のカルフール A会議室
7月1日(土)、17:00~19:00、東京恵比寿のカルフール B会議室
テクストは哲学とは?という問いに関するものにする予定


詳細は決まり次第、この場と専用サイトに掲載する予定です
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております






2017年1月14日土曜日

ザメンホフ先生のエスペラントという言葉



うとうとしている時、昨日の聞き取り試験でエスペラントが話題になっていたことが浮かんできた
その語りとインタビューを聴いている時、驚いたことを思い出したのである

エスペラントと言えば、ザメンホフ先生が作り出した言語であることを知っていた程度
先生はポーランドのユダヤ人眼科医で、若い時から共通の言語体系を模索していた
異なる言語間の争いを避ける方法として
しかし、わたしの中ではすでに死に絶えた言語で、人工的に言語は作れないなどと考えていた
そのため、現在では数百万人がこの言葉を理解しているという語りが出てきて驚いたのである
ウィキによれば、一時期しっかり学んだ人まで入れると一千万人にも達するとある

そのテープには実際にエスペラントを話すとされる3人が出てきたので益々身近な言葉として感じた
そして、会話に出てきた次の言葉は何を意味するのか?という問題まであった
iam ・・・ (ある時)
ĉiam ・・・ (いつも)
neniam ・・・ (決して・・ない)
このような話題が出るのもヨーロッパならではないかなどと考え、今フランスにいることを確認する

ところで、昨年10月末に帰国した折、科学の学会に参加した
その時の発表を聞きながら、専門領域の言葉は母国語で話されていても外国語だと再認識した
専門外の人には全く分からないだろうと想像したからである
その上で、例えば比較的人口が多いとされる免疫学を例に採ってみる
日本の学会員は5000弱、米国は8000弱、アジア・ヨーロッパを加えても多くて数万人程度だろう
免疫学語を話す人口に比べると、エスペラント語人口の数百万人という数の凄さが分かる

思わぬところからザメンホフ先生の偉大さが明らかになった
日本語ウィキによれば、エスペラントが日本語にもかなり入っていることも分かった
人工語が文化を豊かにしていたのである
夢見心地とか、ぼんやりすることの大切さを改めて思い知らされるエピソードにもなった
それがなければ、忘れてしまうところだったからである




落ちている素早い処理、あるいは「意識の第一層」の退縮?



先日、フランス語コースの連絡が入った
今朝はそのクラス分けの試験のため、暗いうちから小雨の中を大学へ
語学を含む教養課程をやっているところではないかと思う
大体40名くらいの新入留学生が2つの教室に分かれて聞き取りと筆記試験が行われた
両方で90分ほどであった

聞き取りのテープが流れてすぐ、ものすごく早く聞こえてやる気をなくす
その昔試験を受けていた頃も同じように感じたのだろうか
それと、いろいろなことを同時に素早く処理することが難しくなっている
軽やかに動く、という感じが見られなくなっている
これまで唯我独尊の世界に住み、時間を気にせずやってきたためだろうか
外に合わせ、しかも時間を区切ってやることが苦手になっているようだ

これをわたしの「意識の三層構造理論」に当て嵌めると、次のようなことが見えてくる
この試験で試されているような能力は日常生活に関するもので、意識の第一層に属する
そこから離れて第三層に入って長いため、第一層での運動神経が鈍ってきているように見える
両者は並び立たないのだろうか
おそらく、そうだろう
今回、そのことに驚いた
仕事を持っている時には、両者を適度にミックスすることが必要になるのだろう
わたしの場合、当時は第三層に入ることがなかったので、その心配はなかったのだが、、

午後、晴れてくれたので、トラムで北の最終駅まで乗って行った
郊外は住宅地ばかりで見るべきものはなかった
夕方、結果を聞きに再び大学へ
想像したような結果であった
今月末から週1回(2時間)のオーラル・コース(聞き取りと口頭発表:B-2)を始めることになった
米国次期大統領の性格変更は期待できそうにないが、こちらはどうだろうか





2017年1月12日木曜日

新年会に出掛ける




本日も雨模様
午後から研究グループの新年のフェットに出掛けた
昨年末、参加者は飲み物か食べ物の他に、5ユーロまでの贈り物を持ってくるように言われていた
参加者は15名ほどで、学生も入れると30名を超えるという
大所帯だ

わたしが皆さんに会うのは初めてになるので、最初に新人として紹介された
それから1時間ほどは皆さん立ち話をしていた
それから席について、持ち寄った食べ物の後はデザート、果物とフルコースであった

最後に贈り物のくじ引きがあった
わたしにはドビュッシーのCDが回ってきた
丁度、右隣になったパスカルさんからのものであった
ご本人もお好きとのことだったが、わたしも気に入っている作曲家なので幸いであった
左隣からは、非常にフランス的な作曲家との声が聞こえてきた

ところで、イタリアからの留学生がエミという名前なので、日本人から漢字を貰ったと言っていた
また、パスカルさんの高校生の息子は日本の漫画しか(!)読まないとこぼしていた
彼の部屋は漫画の主人公のポスターで一杯だという
勿論、誇張だとは思うのだが、、
先日聞いた日本文化が若い層に浸透している様子を垣間見る思いだった

結局、3時間ほどのフェットであった
周りの本棚に読んでみたい本をいくつか見つけた



          贈り物をかざすパスカルさん






2017年1月11日水曜日

デフォルト・モード・ネットワーク、あるいはぼんやりすることの意味




雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイを紹介いたします

第40回 デフォルト・モード・ネットワーク、あるいはぼんやりすることの意味.

医学のあゆみ (2016.1.9) 256 (2): 178-182, 2016

お暇の折にでもお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします






2017年1月10日火曜日

今年はフランス語に向き合う年になるのか?



相変わらずの曇りの日が続いている
午後から旧市街へ
その道すがら、すべての街灯が灯っていることに気付く
その理由を通りの人に訊いてみたが、ビザーですね、と言って首をひねっている
いつものカフェのご主人は、今日でノエルのお祭りが終わるからでしょう、とのこと
興味深い出来事であった

これはそろそろ動き出さなければならないということなのか
そんなことを思いながらメールボックスを開けると、何というタイミングだろうか
大学からフランス語のコースがあるという案内が入っていた
これまで真面目に向き合ってこなかったので、そろそろその時では、という声が聞こえる
週に二日で12週、試しにやってみることにしようか
近々クラス分けの試験があるという

そう言えば、今年はフランスの大統領選もある
そろそろ外の世界に目をやってもよいのではないか
そんな声も聞こえてきた

こういう流れが昨日言った「しっとりと嵌り込んでいる」という感覚を益々強固なものにしてくれる





しっとりとどこかに嵌り込んでいる



今朝も曇りで霞が垂れ込めていた
グラウンドではいつもの小学生のランニングである
こんな寒い日にも走るのである
皆さんコートなどを羽織ったままで走っている
ある生徒はゆっくりと、ある生徒はスキップなどしながら、ある二人は競争して走っている
まさに人それぞれだ
と思っていると、しばらく休んだ後、皆さんそれなりに走り出した

午後から近くを散策する
連日の湿気のためか、歩道の苔が緑や黄を増し、生き生きとしている
ああ、お前さん、そこで生きていたのか、という感じである

散策から戻ると、直ちに旧市街へ
2時間ほど仕事をする
それからリブレリーに寄る
模様替えされていた店内を感じながら、何冊か読んできた
午後のこの流れは非常にしっくりくるものになっている
生活がしっとりとどこかに落ち着いて嵌り込んでいるという感じになってきた
帰りのロワールもいつもの流れであった



2017年1月9日月曜日

夜の活動としての 「サイファイ・フォーラム FPSS」



今朝も霞と雲であった
前の三つの建物をぼんやり見ている時、そこに綺麗な線が隠れているのを発見した
上の写真にその線を入れてみた
相変わらずのゆったりとした時間であった

今道友信氏の『自然哲学序説』の冒頭を読んでみた
そこに興味深い対比が出ていた
昼と夜の認識の違いである

昼は光を必要とする測定による定量的な認識が行われる
しかし、夜はそれができないので定性的な認識になる
そこでは自己への帰還、反省が行われ、愛が確かめられ、友情が育まれる
夜は創造の時で、反省と愛が一緒になると憧れが生まれる
夜はまた夢の時、想像の時でもある
人を内化し、内観の感度を高める

昼は科学の世界で、夜は哲学の世界とも言えるだろう
昼だけに生きる者はこの世界の一部しか見ていない
これは一日の中でも言えることだが、人生の中でも言えそうである

文明とは昼による夜の侵食である
夜を昼と同じように蛍光灯で明るくする
そこで失われてくるのが夜の営みであるという

フランスで驚いたことの一つに、家々から漏れる夜の光がオレンジ色だということであった
それは夜の営みを重視しているということなのではないかと思ってきた
自分の住まいもそのようにしてきた

科学者がやらなくなった活動に「ナイト・サイエンス」があるとヨーロッパの科学者が指摘した
それは昼に集めた成果について、夜いろいろな角度から語り合うという営みである
梁山泊であり、ミネルバのフクロウである
それがヨーロッパでも衰えているという
昨年呼び掛けた「サイファイ・フォーラムFPSS」の役割もこの辺りにあるのではないか
さらに広く見れば、サイファイ研究所 ISHE の活動すべてが夜の活動とも言えそうである
そんな位置付けが浮かんできた週末である




2017年1月7日土曜日

トランプが出てきた原因はエリートにあるのか?





昨日は再び霞に覆われた朝であった。
向かいの芝生は霜が降りたのか、一面白くなっていたが、午後には快晴になってくれた。

数日前のアメリカがまだどこかに留まっていて、トランプという存在に興味が湧いてきたのか、トランプの人生に関するものと今日のタイトルがテーマのディベートに時間を割くことにした。先日の記事では、口だけで何も実現できないエリートが嫌悪され、酷い発言はするが、それ以上に何かをしてくれそうなトランプが選ばれたという分析が出ていた。アメリカの現状はそれほど厳しいものがあるということになる。

このディベートでは、2人一組のジャーナリストがイエスとノーに分かれて議論している。それぞれが10分ほど意見を述べた後、司会者の質問に答える。その後にお互いの弱点を30秒で指摘し、それに45秒で答えた後、結語を語るという様式だった。勝負は最初によいと思った%と最後によいと思った%の差の大きい方が勝ちというルールであった。

イエスと答えた方は、エリートを過去10年数年の間ワシントンで責任を持っていた政治家と定義して議論していた。その上で、彼らが希望だけを売り、結局何もしなかったことが今回の現象の原因であるとしていた。具体的な政治家の名前も出ていた。成果を出せなかったので傷付いている人が多いというのが、彼らの分析である。それは本人だけとは限らず、本人に繋がる人の中にも将来に不安を持っている人がいるということを意味している。

一方のノーの方は、お金を持ち、大都市に住み、良い職に就いて、好きな時にヨーロッパに行けるような人をエリートと定義していた。その上で、皆さんはトランプ大統領が生まれた責任を取りますか?などと会場に質問していた。議論の最初にエリートの定義が統一されていなかったことがこのような混乱の原因だが、こちらの議論は明らかに問題のすり替えに聞こえた。こちらの側は、悪いのはあのような人種差別的、排他的で女性蔑視の考えを発するトランプ自身であるという立場であった。

エリートに非があるとする方は、その考えは現在のシステムを是として変えようとしない態度で、単におかしな人間が出てきてしまったという認識に過ぎないと指摘。確かに、あのような発言をすること自体に問題があるということは、両サイドとも認めている。問いの含みはそのような人間がなぜ選ばれてしまったのかということなので、ノーの側はその問いには答えていないことになる。イエスと答えた方に理があると判断した。因みに、ノーの論陣を張った方はワシントンポストの記者であった。マスメディアのエリートに当たるのだろうか。ひょっとすると、今でもなぜトランプだったのかが彼らには見えていないのかもしれない。

会場の判定はイエスの方が最初も高く、最後はさらに高くなっていて、皆さんも同じように感じていたことが分かった。こういうディベートは日本ではなかなか見られない。ぼーっとしている脳を刺激するには、偶にはこの種のディベートに触れるのがよいのかもしれない。





2017年1月6日金曜日

やっと新年か



昨日は久し振りに太陽が顔を見せてくれた
小鳥たちも嬉しそうに声を弾ませている
紫煙とはよく言ったものである
強い光の下では紫が一段と映える
向かいの芝生の緑も鮮やかで、試合が近いのかゆっくりと白線を入れる人がいた
やっと元旦を迎えたような気分で、この世に在ることを素直に悦びたくなる穏やかな朝であった

午後から旧市街に出て仕事をする
いつもの席は女子学生に占められていたので、その横に席を取って数時間
少しは前に進んだのだろうか
途中、疑問が出てきたので隣に声を掛けてみた
すると怪しがられることもなく実に親切に教えてくれる
日本ではこの距離が意外に遠いことが分かる
トゥール出身ですかと訊くと、ブラジルからだという
訛りを聞き取ることができないほど流暢なフランス語であった

帰りはすっかり姿を変えた夜の街を味わいながらゆっくりと歩いてきた
光が生み出す魔術になるのか、なかなかの変身振りであった








2017年1月5日木曜日

ニュート・ギングリッチ氏の分析を聴く



昨日はアメリカの日になった
サンダース氏の後にニュート・ギングリッチ氏のヘリテージ財団での話が出てきた
共和党所属で下院議長を務め、2012年には大統領選に出たこともある方である
こちらも歯切れのよい話し方をする
映像はこちらから

この中で、5つのメッセージについて語っている

1) トランプは解析に値する歴史的存在である
2) トランプ主義は大胆でこれまでとは異なる全く新しい考え方である
3) 左翼の無気力と敵意がトランプ主義に向かってくる
4) 多くの人が動かなければ、トランプ主義は成功しない
5) 厳しい敵意が周囲にある中で、「われわれ」が何をするのかが問題になる

政治経験のない人間が大統領になるのは初めてである
しかも、優秀な候補者16人を倒してきた
この事実は、彼が凡庸な人間などではなく、才能に溢れていることを示すものである
そのことを予想した者は少なかった
 
なぜ周囲、特にマスメディアが間違い、彼を攻撃してくるのか?
トランプの現実と旧世界の認識との間には単なるリベラリズムを超えた深い溝があるからである
そして、ギングリッチ氏が言うプロパガンダ・メディアの側はトランプを捉えられていない
攻撃はするが、研究していないと見ている

今回、腐敗に塗れ、理路整然とした話はするが何も成し得ないワシントンの政治家が嫌悪された
人々はちゃぶ台をひっくり返してでも何かをやってくれる人を求めたのではないか
エリートが見ていたものと人々が見ていたものとの間に大きな溝があった
トランプの "We can make America great again" というスローガンはそんな人々の心に届いた
彼はメディアを完全にコントロールすることになり、ワシントンではなく人々に語ったのである

ISISを倒す
腐敗を止める 
キリスト教を守り、「メリークリスマス」と言えるようにする
ポリティカル・コレクトネスに別れを告げ、単純な真実の言葉で語るようにする

閣僚人事を見ても最善の幅広い人材が集められている
国防長官のジェームズ・マティスは民主党からの反対もないと思われる素晴らしい人材だ
長男を戦争で失っている国土安全保障長官のジョン・ケリーも申し分ない
国務長官のレックス・ティラーソンは大企業で成功したが、国のためにどれだけできるのか
保健福祉長官のトム・プライスは医師としての実績もあり、良い選択だろう
国連大使にはインド系アメリカ人のニッキー・ヘイリーを選んだ
住宅都市開発長官のベン・カーソンはジョンスホプキンスの小児脳外科医で、大統領選にも出た
また、2009年のテレビドラマ Gifted Hands のモデルにもなっている

ギングリッチ氏はこの歴史の転換期に二つの問題点を指摘している
一つは "IYI"(The Intellectual Yet Idiot)の問題   
所謂学校エリートが実態も知らずに上から目線で(パターナリスティックに)人々に指示する
複雑な世界のまともな処方箋も出せないにもかかわらず、そのことに気付いていない
もう一つは、チャールズ・マレーComing Apart の世界
これはアメリカ白人間の経済的乖離が生み出した道徳や精神性の衰弱を描いたもの
1960年代から新しい上流と下流が生まれ、いずれでも宗教性、労働倫理、家族意識が薄れている
その過程で認識を共にする同じ階層の人との結婚が進み、乖離に拍車がかかっている
今では Super Zips などという言葉も生まれているという
新しい上流層が住んでいるところの郵便番号を指している
これらは今回の大統領選の過程で浮かび上がったこととも通じ、日本も無縁とは言えないだろう

ギングリッチ氏はこれからを次のように見ている
トランプ氏はセオドア・ルーズベルト大統領にも匹敵するエネルギーに溢れている
伝統的なアメリカ精神の持ち主で、人々に語り掛け、精神を覚醒し、真の自由に導こうとしている
そのためには運動が必要になり、革命が必要になる
その運動に成功しなければ、トランプ主義は失敗に終わるだろう




バーニー・サンダース氏の考えを聴く



本日も終日曇り
グラウンドでは小学生のラグビーの授業が始まった
寒さをものともせず、走り回っている

このところ外の情報には疎くなっていて、アメリカの状況も例外ではない
昨年、アメリカの大統領選挙でトランプ氏が選ばれ、いろいろな論評が飛び交っていると思われる
これまで読もうという気にはならなかった
しかし、今日の午後、バーニー・サンダース氏の選挙後のインタビューが突然現れた
興味本位で観てみたところ、今回の選挙の本質と現在のアメリカの問題が見えるように思った
アメリカ人のエネルギーを思い出させるものでもあった
フランスにいると遠い世界になっていたが、急に体に活が入るような感覚が襲ってきた

最初に観たのは、こちら
興味深かったので、続けて4-5種類の番組を観ることになった
その中で見えてきたことを簡単にまとめてみたい

彼の熱の入った語り(訴え)から、アメリカ時代を思い出し、いろいろなことを考えさせられた
彼がなぜあれだけの選挙戦をやり、今もこのような熱気の中にいるのかが分かったような気がした
まず、彼の言葉と語りである
そこには熱がある
お題目で唱えているのではないので、相手に直接届く言葉になっている
人々と同じ目線で問題解決に向かいましょうという真面目な姿勢が見える
それが民主党のエリートがやってきた(こなかった)ところから炙れた人に響いたのではないか
お相手のサラ・シルバーマンさんが言っていた意識的に生きている人の言葉だからなのだろうか

大企業や金持ちが政治を動かすようになり、これまでの中間層が著しく減少した
やり方は酷いものではあったが、その不満を掬い上げることに成功したのがトランプ氏であった
彼はウォールストリートと闘い、職を確保すると言ったらしい
オバマに投票した人の中でクリントンではなくトランプに投票した人がいたのもそのためだろう
それだけ痛めつけられていると感じている人がいるということになる
クリントンはウォールストリートと縁を切ることなく、問題を解決しようとしたらしい
ただ、閣僚人事を見ると、公約?が本意なのかどうか注視しなければならないことが分かる 

そして、マスメディアも大企業が所有し、広告主にも支配されている
そこでは目を引くことは取り上げられるが、重要な問題は論じられなくなる
独立したメディアが求められる所以である

その他、教育の無償化や健康保険についても指摘していた
マイケル・ムーアの『シッコ』で、アメリカにある社会主義に対する極端なアレルギーを知った
皆保険などの平等な政策に異常なほどの抵抗感があるのに驚いた記憶がある
サンダース氏は保険に入ることができず、苦しんでいる人がいてよいのかと問い掛けている
そのような国は先進国でただ一つだとも指摘していた

これまでの民主党がいわばエリートの側に立ち、政策を立てていた
ヒラリーはそちら側だったのだろう
彼は民主党を離れているが、党の再建に関わるアウトリーチ活動の責任者に指名されたようだ
これまでの方針を見直し、多くの人が関わるようにすることをテーマに据えている
今や民主党は国レベルだけではなく、州レベルでも劣勢にある
民主党の中身を大きく変え、中間層に絞って語り掛けなければならないと考えている

政治的状況もマスメディアの状況も教育の状況も本質的には日本と余り変わらないように見える
ただ、保険制度だけは問題はあるのかもしれないが、アメリカよりはよさそうである
サンダース氏はわれわれの政治参加は選挙の時だけではないと考えている
力を持っているわれわれが塊を作って声を挙げれば、必ず政治家を動かすと信じている
もう75歳になっているが、その活力は全く衰えていない
久し振りにアメリカのダイナミックな政治の一断面を見る思いであった





2017年1月4日水曜日

徐々に寒くなる



本日も曇り
日本式に言えば、正月三が日がこの空模様である
フランスは、もうラントレのようだ
グランウンド周りの小学生のランニングが始まった
一番後ろにやや太めの男子生徒が苦しそうに走っている

お昼にはポストから「トゥーレーヌへようこそ」という贈り物の箱が配達される
歌うような挨拶とともに
歓迎されているようで、気分が明るくなる

午後から旧市街へ
いつものカフェで新しいものを少し読む
少しずつ寒さが増しているように感じる
早めに帰ってきた




Giovanni Gabrieli - Canzon III a 4 par ArgeliaPortillo





2017年1月3日火曜日

宮沢賢治の輪郭に初めて触れる



今日も曇り時々雨
届いたばかりの本を内と外で読む
なぜかパリでは日本からのパックをうまく受け取ることができなかった
そのため注文することを止め、帰国の折に仕入れていた
しかし、この町では数日で部屋の前に届くので、少々お高くなるが注文するようになってきた
恰もすぐそこの日本から届けられたように、とでも言いたくなるようなタイミングなのである
それが気に入っている

内で読んだのは、真木悠介(見田宗介)氏の『自我の起原』の補論
百年後に残っている唯一の日本文学と言う人もいる宮沢賢治の作品を読んだことがなかった
お恥ずかしい話ではある
その賢治の人生について真木氏が次のような分析をしている
今日の発見となった

まず、賢治を鋭い倫理的資質を持った人間として捉えていることに目を見張る
賢治は人間の生活を労働、性欲、思索の三分説で考えていた
その上で、この三つを一度に成立させることはむずかしい
とすれば、労働と思索を取るために性欲を抑えることにする
さらに、自分の子供だけが大切という愛の連鎖を断ち切らなければ、真実の場所には立てない
彼が独りであることに固執したのは、自閉ではなく、寧ろ自分を開くことへの戦略だった
家族という共同体の愛/エゴイズムはあらゆるナショナリズムの元素態である
このようなナショナリズムからコスモポリタンとして亡命しぬくことが賢治の禁欲の眼目であった

わたしなりに纏めると、賢治の理想とする生活は自らが極限まで開かれた状態にあること
至福が遍く行き渡るようにするためには、その状態が欠かせないと考えたのだろう
彼の人生はその状態に至るために費やされたと言えそうである
彼はディオゲネスだったのである

「あとがき」にあった真木氏の次の言葉の真意にも共感せずにはいられない
「虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言説は未だ崩壊していない。だからこの種子は逆風の中に播かれる。アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちの内に、青々とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類の仕様のない書物を世界の内に放ちたい。」
訳知り顔の語りではなく、真剣な語り、率直な語りをわたしも見てみたいものである


午後からは外に出る
昨日とは打って変わって今日の街は生き返ったようになっていた
昨日は閉まっていたいつものカフェで、もう一冊を2時間ほど読む
いまのところ、新しいことは出て来ていない
こちらは何か出てきた時に取り上げてみたい





2017年1月1日日曜日

ヨーロッパでの10回目の正月を迎えて



ヨーロッパで10回目、トゥールでは2度目の正月を迎えた
特に感慨が湧くということはない
朝の空模様は昨日と同じである
今年の先行きを暗示しているのだろうか

昨年の今頃はパリで、これからどうするのか、どのような道があるのかを探っていた
その大枠が見えてきた今年は、何をするのかがテーマになるだろう
より正確には、これまでに浮かんできたプロジェを如何に実現させるのかが問題になるだろう

昨年末に意識できたことがある
それは外に出て世界をこの目で観る時、そのすべてが非常に明瞭に見えるということである
そのすべてが美しく、しっかりした映像として捉えることができているという認識である
より主体的に言えば、この世界を写し撮る、あるいは移し取ろうとして観ているということである
その結果として、この世界が焼き付くように捉えられるようになっている
この観察を広げれば、例えば本を読む時、人の話を聴く時などにも起こっているように見える
生物の重要な機能が外界との調節にあるとすれば、今回に発見は非常に重要なものになる
それ以上に重要なのは、このことが精神に充足感を与えていることだろう

今年も発見に満ちた日々が訪れるよう目を凝らして行きたいものである




午後から元旦の街に出る
ほとんどの店は閉まっているが、市役所界隈は僅かに開いているところがあった
新しいカフェで、今年最初の飲み物はリストレットになった
店の人の応対が優しい
一緒に入ってきた母親と子供三人の家族連れがすぐ横に座った
学校に入る前と思われる一番下の女の子が、母親に何語で話したらよいか訊いている
そして、わたしに Where are you from? と話しかけてきた
どうして英語だったのですか?と母親に尋ねると、アメリカから来たと思ったとのこと
日本から来たと答えると驚いていた

暫くすると、小学校低学年と思われるお姉さんが、「こんにちは」は日本語ですか?と仏語で
そうです、と答えると恥ずかしそうに喜んでいた
どうも異文化に興味津々のようで、こちらを覗き込みに来る
こんなことはパリのカフェでは一度もなかった
先日、フランスの子供に日本語や日本文化が入り込んでいることを知ったが、それを確認した
最後に母親が、こちらの寒さは大丈夫ですか?と訊いてきたので想像以上に穏やかだと答える
すると、この答えにも驚かれた

今年もこのような偶然と小さな触れ合いを大切にしながら歩みたいものである




帰り街中を歩いていると寒くなる
丁度その時、一つだけ開いている温かい飲み物を出しているところが目に入った
今年初めての vin chaud を路上の立ち飲みで味わいながら、これからを思う
とはいうものの、いつもその精神状態にあるので、仕事をしている時ほどの有難さはない