2017年12月3日日曜日

絶学の境地とは



ネットサーフィン中に、絶学という言葉に出会った
学問を断つということは想像できるが、学問を超えた境地という意味があるようだ
「・・・を超える」ということがわたしのテーマになって久しいが、この言葉は興味深い
学問を科学に置き換えれば、科学的真理を超えた境地ということになるだろう
それはわたしにとっては形而上学の世界だが、宗教の世界でもあり得る

この言葉は『正法眼蔵』の「行持 上」に出ているというので早速読んでみた
道元とは初めての接触になる
行持とは、仏としての修行の生活を続けることを意味している
これまでの優れた僧のエピソード集のような章であった

俗世の欲の世界から離れ、座禅の生活をすることにこそ真理・悟りに至る道だという
100歳まで生きてもこの時間がなければ虚しい生になる
何歳になってから始めても遅くなく、それをやらないのは愚かなことである
これらの教えは古代ギリシア哲学、例えばプラトンやエピクロスにも通じるものがある
若い時から抱いていたイメージがそのまま描かれているところもあり、驚く
そして、最後の方にこう書かれてあった
「寒炉に炭なく、ひとり虚堂にふせり、涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する、たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり。これ行持なるべし。
 おほよそ、ひそかに貪名愛利をなげすてきたりぬれば、日々に行持の積功(しやつく)のみなり。このむね、わするゝことなかれ」
「一知半解なくとも、無為の絶学なり」とは、知識や理解が貧しくとも、意志・意欲がすべてなくなった仏僧の境地を言うらしい。

ざっと読んだところ、ある結論に至るまでの論理が見えにくいところがあるように感じた
初めての道元で、ほんの一部ではあったが、それほど抵抗なく読むことができた





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