2017年12月31日日曜日

普段と変わらない大晦日



これから1週間ほどは曇りか雨の予報だったが、午後から晴れてきたので外に出た
人出は普段と変わらず、店は殆ど閉まっている
いつものカフェは開いていたので、いつもの席に落ち着く

現在並行して進めているプロジェについて、その全体を掴むようにしながら思索を進めた
吉田秀和的ふんぞり返りの中でのことである
 いま日本では別の人がその姿勢で話題になっているとの話を小耳に挟んだのだが、、、
この状態での精神の在り方は精神の健康を保つ上で欠かせない
これを感得できたのは、フランスでの全的生活の成果の一つだろう

夕方から土砂降りがあった
小降りになったところで帰ってきた





2017年12月30日土曜日

新しい年の新しい姿



2017年ももう少しで終わろうとしている
今年は学生の後の移動が終り、落ち着いて過ごすことができた1年ではなかっただろうか
この間、一つの重要な考えが浮かんだ
つい最近のことかと思って検索したところ、わたしにとってはかなり昔のことで驚いた

瞑想生活から省察生活へ (2017.9.15)

いつもぼんやりしている状態にいた瞑想生活が10年に及んだことになる
その時間の中で自分の中にある問題がかなり見えてきた
これからはそれらを対象にして、省察を主にした生活に移行してはどうかというものだ
と同時に、これまで捨象してきた体を取り戻すということもその中に入るだろう
心身二元論に立つとすれば、そのバランスを取り直すということでもある

これらが新しい年のテーマになりそうである
研究上のプロジェではなく、それをどのような空間、様式で進めるのかという問題になる
その姿は見えてくるだろうか






2017年12月27日水曜日

記憶への扉としてのカイエ



この年末は非常に凌ぎやすい
5度から15度の間位で通り過ぎそうである
ただ、曇りや小雨の日が多い

なかなかその気にならないパリ時代のカイエの読み直しプロジェ
今朝、探し物のためにその中の一冊を手にしてみた
いつもそうなのだが、開いた時は発見の連続である
何もしていなかったように思っているが、何かをやっていたことが分かる
そして、いまに繋がることが実に多い

それらは記憶の彼方にあるだけに、カイエという触媒なしにはそこに辿り着けない
これほどまでに何ものにも代え難い存在になろうとは当時は想像もできなかった
ただ、已むに已まれぬ内から湧き上がる何ものかがそうさせていただけなのだが、、
カイエが記憶への扉になっていることが分かる






2017年12月26日火曜日

年末の省察の時間



年の瀬を迎え、予定では忙しなくプロジェを進めることになっていたが、その気にならず
今年はどうなるかと思った振り返りの時間を持つことができた

昨日の夜、未だに未整理のファイルでも処理しようかと思い、次々タイトルを見ていた
そうすると、その前まで考えていたことに直接関係する論文が現れたのである
何年か前、そのようなテーマに興味を持ったことは覚えているが、忘れていたものである
それを読んでみると、興味深い問題が指摘されている
そのような方向性の新しいプロジェもあるのではないか、という感じだろうか
こういうことがあるので、資料はなかなか捨てられない

その影響かどうか分からないが、寝る前にいくつかの問いが浮かんだのでメモしておいた
今朝起きて、それを読み直してみると意外に膨らむ余地がある
その先にはこれまで抱いていたイメージと全く違うオプションが浮かび上がってくる
これは具体的に考えてみる価値があるのではないか
今日のところはそんな感じで、来年に向けての大きな課題になりそうな感触がある






2017年12月23日土曜日

週末の大発見、あるいはフルトヴェングラーの哲学




今日、Youtubeで思わぬ発見をした
フルトヴェングラーの「音と言葉」の朗読である
そこで展開されている話がわたしのテーマとも重なっていることに驚いたのだ
大発見と言ってもよいだろう
前回の吉田秀和と関連するのも面白い

勿論、フルトヴェングラーの名前は学生時代からよく知っている
その偉大さについては語られていたが、その音楽を聴くことは殆どなかった
古いものに目が行っていなかったのである
この点は来月出るはずのエッセイでも取り上げている
そして科学の中に身を置いている間にその名前は記憶の彼方に行ってしまった

改めてその考えを聴いてみると、このような思考をしている人間が少ないことに気付く
哲学的なのである
wikiによれば、妹の夫は哲学者のマックス・シェーラーだったという
そのことも関連していたのだろうか
そして、科学者の時には理解できなかっただろう彼の話を理解できることに悦びを感じる
哲学的だと評価できることにも、である

わたしの理論で言えば、意識の第三層における思考が展開されているのである
その上の第二層では科学的思考が行われるが、それが力を持ってくる時代を批判している
芸術にとって害になると考えていたのだろう
同質の問題が今もあり、おそらく当時よりも酷くなっていると想像される

彼の本をアマゾンで調べたところ、日本では多く出ているが、フランスでは極めて少ない
政治的な背景が影響しているのだろうか
彼の考えを知りたくなってきた
と同時に、遠ざかっていたその演奏にも触れてみたいものである

過去が思わぬ形で蘇った週末の朝である




2017年12月22日金曜日

変化の兆しを見逃さない




今日は久し振りにカフェ2軒で新たなプロジェに当たる
外でやった方がよいものと籠ってやった方がよいものがある
今日はその選択を間違えなかったようだ
人出は前回よりも多く、溢れるような感じであった

どうもこんな感じで年を越し、新年に雪崩れ込むような雰囲気になってきた
その間に今年を振り返り、新年の方向性を考える機会を持つことはできるだろうか
ISHEのプロジェに関しては、先日やったところなのだが、、
微妙な変化の兆しを見逃さないようにしたいものである




2017年12月20日水曜日

1時間が長くなっている




翻訳の見直しが終わったわけではないが、年明けまで少し余裕ができた
そのため、ご無沙汰していた他のプロジェクトにも当たる気分になってきた
ということで、今日は久し振りに外に出た
やはり、健全な心を育てるためにはこのリズムが必要のようである
クリスマスのためか、街にはいつも以上の人が出ていた

カフェでは時間が非常に長く感じられるようになっていることに気付く
よくやったなあと思ってみると、やっと1時間という具合である
これはその中に深く入ることができるようになっていることなのか
あるいは単に、集中力、持続力がなくなってきたということなのか






2017年12月16日土曜日

翻訳の見直し中



このところ、翻訳の見直しに集中している
暫くの間、他のプロジェクトを諦めることにした
その方がメリハリがつくだろうとの予想である
まだ半分を過ぎたあたりだが、年内にすべてを終えることができるだろうか
すっきりして新年を迎えたいものである





2017年12月13日水曜日

これがここしばらくの日常か



月曜は朝から窓を叩きつけるような激しい風が吹いていた
垂れ込めた雲は西から東へかなりの速さで流れていた
夕方、青空は覗いたものの雲の流れには変わりはなかった

一夜明けた昨日は朝から晴れてくれたが、向かいの芝生には霜が降りていた
霜が見えなくなってから散策に出た
そして今日は朝から雨である
だが、基本的には籠ってプロジェに当たる毎日だ

これだけでもう1週間以上たったような気分だが、まだ2日だったのには驚く
疲れが溜まっているのか、キーボードの誤作動も少なくない
困ったものである




2017年12月10日日曜日

予想がつかない日々



一日は実に長い
外からの圧力がある時には、そのことに気付かない
それがなくなると、そこには広大な世界が広がっている
謂わば、使い放題の時間空間がそこにある

それだけ長い自由が広がっているので、その日に起こることは予想できない
予定のようなものを思い描いてもその通りに事が進んだためしはない
つまり、その日が終わるまで力を尽くさなければならないということである
何が出てくるのか分からないからだ

このところ、プロジェを追う生活になっている
それに対する意識を変えてはどうかという考えが先日浮かんだ
これまでは日常から横滑りするような感覚でプロジェに当たっていた
偶には、その時だけ、エネルギーを注ぐという意識でやってみてはどうかというものだ
英語で言えば、pump up するという感覚だろうか
なんだか、どんどん詰まらなくなっていくようではある

いずれ、以前のような願望が湧いてくる時も来るのではないか
そんな希望を抱きながら、ここしばらくはこういう日々が続きそうである




2017年12月9日土曜日

ジャン・ドルムソンさん亡くなる

2007年1月、ジャン・フランソワ・ドニオーさんの葬儀にて


昨日の朝、ジャン・ドルムソン(Jean d'Ormesson)さんが亡くなったことを知った
享年92
キオスクで特集を組んでいる雑誌を見掛たからである
写真左の方で、48歳という若さでアカデミー・フランセーズの会員になっている
それ以来、フランス社会に大きな影響を与えてきたようだ 
パリ行きの電車の中でざっと目を通した

日本にいる時にはもちろん知らない方だったが、こちらではよく目にした
何冊か手に入れたが、熱心な読者ではなかった
やはりアカデミシアンのマルク・フュマロリさんのドルムソン評を読んだ記憶がある
写真右の方である
「彼は多くの人に愛されていて軽く見られているが、彼の本を読み直してみて、実は執拗に考える哲学者であることに気付いた」
マルク・フュマロリさんが語る文学に纏わること (2015.3.4)




目に留まった言葉をほんの少しだけ書きとめておきたい
まず、上の写真にもある言葉
「人生、歴史、時間は、思い出を作り出す機械以外の何ものでもない」
それからなるほどと思ったのは、次の言葉
「わたしは後ろを見ている世界に生まれた。そこでは、過去が未来よりも重要だったのである」
わたしがこれまで感じていたことが間違っていなかったと思うと同時に、なぜこれまで心地よく生活できたのかもよく分かる言葉である。わたしの目指しているものと重なっていたからである。

それからこんなのもあった
「インターネットは恐るべき道具である。どうしてそれを否定できようか?そこにはすべてがあるのだ!・・・しかし、危険なのでネガティブと言える面もある。それはネット・サーフィンと言われるものだ。それは組織立った注意散漫(la dispersion)である。注意散漫とは闘わなければならない」
これは耳に痛い言葉だが、la dispersionという言葉が印象に残った
わたしの場合、この現象は何もネットだけに限らない
気が多いためか、次から次へと対象を変える傾向がある
これからは "Éviter la dispersion !" (気を散らさない!)を掲げて歩みたいものである




2017年12月8日金曜日

パリの空気を吸う



本日はパリに用事があり、日帰りをした
先週も行っているが、もう大昔のようだ
少し雨に降られたが、用事はすんなり終わった

場所を変えると、できそうもない欲求が出てくる
その場ではそうは感じないのだが、本拠地に戻ると日常に埋没して易きに流れる
今回はどうだろうか?




2017年12月6日水曜日

淡々と歩む



このところ、いくつかのプロジェクトを進めるという生活になっている
パリのほとんどの期間、やろうと思ってもできなかったことだ
興味が外に向いていたからである
それが最近できるようになっている

その生活では、自らが決めたゴールに決めた時までに辿り着くのが原則になる
何と詰まらないことだろうか
この感覚を和らげるのが、ゴールに向かっているという考えをなくすことである
ゴールに向かっているのではなく、その日を淡々と歩いていると感じることである
そうすると、その時々に発見を繰り返すことができる
そして、気が付いたらゴールに着いていたということになるからである

そう言えば、この感覚、先日の吉野山散策でも味わったことであった




2017年12月5日火曜日

理解したと思うことと表現するということ



アパルトマンの裏庭にある木を昨日の朝撮ってみた
丁度霧の中であった
いまは赤い実を付けているが、春には白い美しい花を咲かせていた
こうも変わるものかというくらいの変わり様である
何も考えていないようだが、実は人間より考え、人間より強いのかもしれない
人間がいなくなるとその力を徐々に発揮し、地球は植物で覆われるのではないだろうか

このところ翻訳の見直しをやっていたが、送られてきた50ページほどを終えた
これでまだ三分の一程度である
今回も意味がさらに明確になってきたところがいくつかあった
フランス語の文章を日本語でよりよく表現できるようになったということである
よく言われることだが、外国語を理解することとそれを日本語に移すことは違う
この二つは別の次元のことである

ただ、こういうことも言えそうである
最初に理解したと思っていたことは、実は本当の理解でなかった可能性もある
その場合、よりよい日本語にすることにより、理解がさらに確実なものになると感じる
そういう個所がいくつかあったということである











2017年12月4日月曜日

平凡な一日




今朝は雨模様
午前中は再び霧がかかっていた
そんな中でも練習している人たちを眺めながらプロジェAに当たる
午後晴れてきたので外に出てプロジェBに当たる
比較的集中できたのではないだろうか
今日は先日ほど寒さを感じなかった
穏やかな冬の日というところだろうか




2017年12月3日日曜日

絶学の境地とは



ネットサーフィン中に、絶学という言葉に出会った
学問を断つということは想像できるが、学問を超えた境地という意味があるようだ
「・・・を超える」ということがわたしのテーマになって久しいが、この言葉は興味深い
学問を科学に置き換えれば、科学的真理を超えた境地ということになるだろう
それはわたしにとっては形而上学の世界だが、宗教の世界でもあり得る

この言葉は『正法眼蔵』の「行持 上」に出ているというので早速読んでみた
道元とは初めての接触になる
行持とは、仏としての修行の生活を続けることを意味している
これまでの優れた僧のエピソード集のような章であった

俗世の欲の世界から離れ、座禅の生活をすることにこそ真理・悟りに至る道だという
100歳まで生きてもこの時間がなければ虚しい生になる
何歳になってから始めても遅くなく、それをやらないのは愚かなことである
これらの教えは古代ギリシア哲学、例えばプラトンやエピクロスにも通じるものがある
若い時から抱いていたイメージがそのまま描かれているところもあり、驚く
そして、最後の方にこう書かれてあった
「寒炉に炭なく、ひとり虚堂にふせり、涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する、たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり。これ行持なるべし。
 おほよそ、ひそかに貪名愛利をなげすてきたりぬれば、日々に行持の積功(しやつく)のみなり。このむね、わするゝことなかれ」
「一知半解なくとも、無為の絶学なり」とは、知識や理解が貧しくとも、意志・意欲がすべてなくなった仏僧の境地を言うらしい。

ざっと読んだところ、ある結論に至るまでの論理が見えにくいところがあるように感じた
初めての道元で、ほんの一部ではあったが、それほど抵抗なく読むことができた





2017年12月1日金曜日

パリ日帰りの一日



本日は用事があり、パリへ
途中、田園風景に雪が見られたが、パリには雪はなかった
用事は順調に終わり、日帰り

トゥールに戻ると、朝見たツリーがライトアップされていた
空を見上げると、ほぼ満月
いよいよ寒くなってきた