2017年11月3日金曜日

吉野山散策始まる



今回の吉野「散策」は、久し振りに写真をふんだんに使って振り返ってみたい
すでに触れたように、吉野駅からケーブルに乗る予定だったが故障中
乗り場に続く道をゆっくり歩き始める
最初は少し苦しいが、そのうち慣れてきて苦しさがなくなる




歩き始めは感覚も鋭く、すべてが新鮮に感じられる
自然の中に身を置いた状態を意識すると、次第に体が消えてくるのが分かる
せせらぎも耳に心地よく、精神を浄める効果がある
そして、この日は自然の中にあるいろいろな形を見ることができた
最近、この「形を見る」ということに悦びを感じていることが分かってきた




この辺りから散策が始まるのだ、という気持ちになってきた




直ぐに紅葉はこれからだと分かる







こういう形を見るだけでこころが穏やかになってくる




少しすると、黒門(くろもん)が現れる
金峯山寺(きんぷせんじ)の総門に当たり、吉野一山の総門にも当たるという
この辺りは、まだ散策の気分である
この先にはお土産屋さんや食事処が連なっている




直ぐに「銅(かね)の鳥居」が現れる
正式名は「発心門」とのこと
重要文化財に指定されているようだ 





そして、金峯山寺の「仁王門」が現れたが、修復中の模様
修験道の根本道場で、国宝と世界遺産に指定されている




更に進むと、やはり国宝で世界遺産の「蔵王堂」が現れる
丁度人が降りてきたところなので、中を見られるかどうか訊いてみる
はっきりした声で、見られますと答えてくれたので上がってみることにする




檜皮葺(ひわだぶき)がこれまでに見たことのない色合いでなかなか良い
歴史の中に引き込まれるように感じる
ただ、残念ながら写真ではその色合いを感じ取ることができない 







村上義光が親王のために忠死したところが蔵王堂だったようで、境内にその碑があった
暫しの時を蔵王堂で過ごした後、更に歩き始める







人はあまり歩いていない
そんな中、知らない人が店の前を通るのである
お店の人が声を掛けてくれるが、その調子が何とも言えないのだ
相手の領域を邪魔しないように、しかしその中に入ることができるように
恰も両者のインターフェースを微かに振動させるように挨拶するのである
こちらも同じように答えるようにした




役行者が開基したと言われる東南院が現れる
修験行者の暫しの憩いの場になる宿坊だったようだ





中に多宝塔がある




庭には芭蕉の句碑があった

   砧打ちて我にきかせや坊が妻

『野晒紀行』に収められているようだ





坂道の途中には、いろいろな色と形のお店が目を楽しませてくれる




勝手神社の鳥居が見える



 


嬉しいことに、この日は7-8回この雲に出会うことができた
ひょっとすると、今回の滞在で初めてのことかもしれない




さらに歩みを進め横を見ると、先ほど通ったばかりの蔵王堂があんなに遠くに見える
これには驚いた
しかも心地よい驚きであった

アリストテレスの言う最高善とはどのようなものだっただろうか?
それは、何かのためにすることではなく、そのことをすること自体が目的になっているものである
何かのためにあることをするのは、価値としては落ちることになる

普段、座ってばかりいる人間にとっては、とんでもない山道を歩いている
しかし、歩いている時にはどこかに向かおうという気持ちが消えている
「いま・ここ」だけに意識が集中している
それ自体が目的になっているのである
その時、苦しみは感じない
どこかに向かうためにいま歩いていると思うと、それだけで苦痛になる

そしてその時、ニュートン的な時間も消えている
何時間歩いたのかということも気にならなくなる
そんなことは意識に上らなくなっているのである
これは実に気分の良いことであった
ベルクソンの言う「持続」に近い感覚が生まれているのではないだろうか
まだ旅の半ばだが、今回の道行を支えていたのは、実はこのメカニズムだったことが見えてくる

明日も続く






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