2017年5月31日水曜日

1年ぶりの学友との語らい




今夜は学生時代の仲間に顔合わせの機会をセットしていただいた
有難い
殆どの方とは1年ぶりだが、皆さんお元気そうでほっとする
ただ、よくよく聞いてみると、いろいろな変化が身の回りに起こっている
また、伝え聞く話の中には大きな変化を経験している方もいるようで、複雑な気持ちになる

そんなことを別にすると、いろいろな人物をネタにしながら語り合うのは面白い
それぞれの人物評が興味深い
テレビで顔を見る寺島実郎氏を小学校から知っているという人が話をしていた
時間軸で人物を見ると、人間の本質のようなものが見えてくるようでもある

自分では全く意識していないが、数字を示されると新たなステージに入ろうとしていることに気付く
しかし、「人生は数字ではない」 が学生時代からのモットーであった
少し引いて見ると、これまで通りの認識でよいのではないか
何のことはない、そんなところに落ち着いた

いずれにせよ、次の帰国の折にも是非お会いしたいものである





2017年5月29日月曜日

子供たちに伝えられていた哲学精神



先日エンジンをかけたはずだが、この間アイドリング状態から抜け出せなかった
二週間の間、フランス時間のままであったことになる
時間的な余裕があることにして、休養を欲していたのかもしれない
向こうでは見られないテレビを観て、食べて寝るだけなので体重も増加気味
今週から動き出したいものである

昨日のこと
イタリアの美術教育家を招いて子供たちに美術を教える番組が流れていた
先生は美術の技術を超えるものを伝えようとしていた
1週間の間に子供たちがどのように変化していくのかを見るのは興味深かった
大人もそうだが、子供も見知らぬ人との交流、自己表現が苦手であることが分かる
しかし、一旦溶け込んでしまうと身内に対する表現に変わるのだが、、

その中で先生が重要なことを言っていた
自分の外と内を観察して、そのことについて考える時間を持つようにすること
これまでに蓄えたことを思い出し、繋ぎ合わせ、想像力を働かせること
自分を観察することをしない人間は、批判に向き合うことのできない弱い人間になる
それから、自分の作品を言葉で説明できるようにすること
これらを実行できれば、個人だけではなく、社会も国も大きく変わる可能性がある
その前に、このことを意識できなければ何事も始まらない
しかし、その認識も実行も至難の業であることを経験してきた
これらはわたしが考えている哲学の基本になることと通じているのに驚く
そこにヨーロッパ精神のようなものを見るのはわたしだけだろうか? 
子供の時からこのような態度で歩んでいると、どんな大人が出来上がるのだろうか?


それから、先日も触れたが、テレビではヨーロッパの紹介映像が目に付く
フランスの世界遺産、ドイツロマンチック街道、ルクセンブルク、パリのシネマなどなど
いずれも記憶を刺激するものであった
そして、いつも感じていることだが、日本から観るヨーロッパは何と美しいことか






2017年5月24日水曜日

取り敢えず、エンジンをかける



概日リズムが狂ったままで、まだ完全には戻っていない
時差ボケか、単なるボケなのかは分からないのだが、、、
その昔は数日で回復したのだが、今回は1週間を超えている
これも経年変化か?

日本に戻ると、日常的なことが頭に上り、深く沈みこむことが難しい
向こうにいると、どっぶりといろいろな問題に入り込むことができる
頭の中がすっきりする、あるいは透明になるという感覚だろうか
なぜなのか分からないが、そういう特徴を利用して生活していることになる
日本では、今回も少しだけ活動的に動き回りたいものである

とにかく、今日から普通のペースに戻すことにした
院生の時には帰国しても図書館に落ち着くなど、努めてもできなかったが、今は違うようだ
精神状態が大きく変わっている
初日はエンジンをかけるところで終わったようだ






2017年5月22日月曜日

「文体は思想である」 ということの意味



「文体は思想である」 という表現を聞いたことがある
このテーゼはいろいろな人がいろいろな言い方で語ってきたものと思われる
古くはセネカが 「文体は思想の衣である」 と言っている
"Le style est le vêtement de la pensée." (Sénèque)
新しい考えなどこの世に殆どないという一例だろう

実は、この言葉を聞いた時、それがどういうことを意味しているのか、よく分からなかった
しかし、今回日本での時差ぼけの中で分かったような気がした
おそらく、一つの意味が

それは翻訳のことを考えている時に起こった
ここに外国語の文章がある
それを日本語に置き換えるのが翻訳だが、経験から訳文は殆ど無限に可能であることが分かった
まず、一つの単語にどのような訳語を選ぶのか、である
それは訳者の日本語世界と文章の捉え方などに依存してくる
それだけでもかなりのオプションがあり、それを各文章で考えなければならないのである
途方もないバリエーションが可能であることが分かる

もう一つの要素に文体がある
それを考えた時、次のようなことが頭を巡ったのである
一人のフランス人がフランス語という言語世界の中で自らの思想を展開している
その表現はフランス語世界の中での一つの階層のようなものに属しているはずである
表現に至るまでに著者の頭の中で起こっている思考の襞の複雑さのようなものの表れになる
単語をどのような入れ物に入れるのかが文体で、それを選んでいるのは著者である
もしそうだとすると、文体は必然的にそれを選んだ人の思想を表すことになるだろう
それが意識されているか否かにかかわらず
これは宣長の意と姿の対比にも通じる
意の思想もさることながら、姿にも思想が表れることを意味している
そこに芸術家の真骨頂が発揮されることになる

翻訳の難しさを感じたのも、まさにこの点であった
ある階層にあるフランス語を同じレベルにある日本語に置換しなければならないのである
それは可能な作業だろうか
事実だけを伝える文章の場合には 「意」 だけが問題になるので比較的容易だろう
しかし、文学作品などは至難の業に見える


それまで分からなかったこと、気付かなかったことが見えてくる一瞬がある
それはまさしくわたしにとっての発見なのだが、昨年春の帰国時にも同じようなことが起こった
それまで薄々感じてはいたのだが、明確に意識されていなかったことに言葉が与えられたのである
そして、そこから一つの世界が広がった
これからも注意深く観察していきたいものである




2017年5月21日日曜日

サイファイ研究所ISHEから催し物のご案内



サイファイ研ISHEの今年前期の活動をお知らせいたします
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


第3回サイファイ・カフェSHE札幌
  <科学を哲学や歴史の視点から考え直す>

  2017年6月3日(土) 16:00-18:00
  札幌カフェ(5階会議室)
  
  テーマ: 病気が治るとはどういうことか
  ポスター 

第5回カフェフィロPAWL
  <「生き方としての哲学」の流れにある哲学者の考えを振り返る>

  2017年6月9日(金) 18:30-20:30
  ルノアール・飯田橋西口店(2号室)
  
  テーマ: ソクラテスの死が意味するもの
  ポスター

第1回サイファイ・フォーラムFPSS
  <科学者を中心に科学の外から科学を考え、科学を文化にする>

  2017年6月10日(土) 13:45-16:15  
  日仏会館(509号室)
  
  テーマ: フォーラムの方向性について
  ポスター 

第11回サイファイ・カフェSHE
  <科学を哲学や歴史の視点から考え直す>

  2017年6月16日(金) 18:30-20:30
    ルノアール・飯田橋西口店(2号室)
    
  テーマ: エルンスト・ヘッケルの科学と人生
  ポスター

  なお、2017年6月17日(土)の会は都合により中止といたしました。
  ご了承の程、よろしくお願いいたします。

第1回ベルクソン・カフェ(2回シリーズ)
  <フランス語のテクストを読み、哲学する>

  (1)2017年6月24日(土) 16:00-18:00
    恵比寿カルフール(A会議室)

  (2)2017年7月1日(土) 17:00-19:00
    恵比寿カルフール(B会議室)

    (開始時間と会議室が異なっています)
     1回だけの参加でも問題ありません
  
  テクスト: Pierre Hadot, « La philosophie comme manière de vivre »
        (「生き方としての哲学」) 
        Exercices spirituels et philosophie antique (Albin Michel, 2002)  p. 289-304
   
   参加予定者にはあらかじめテクストをお送りします

  ポスター



サイファイ研究所の活動にご理解のほど、よろしくお願いいたします






2017年5月20日土曜日

再びの嬉しい繋がり



まだ時差ぼけのようである
昨日の偶然は、藤田哲也(1920-1998)という気象学者についてのドキュメンタリーであった
若い時にアメリカに渡り、後にアメリカ人になった方である
その後半を観ることができた
ウィキによれば、去年の再放送のようだ
そこで印象に残った言葉は次のもの

「言いたいことを言え。半分間違っていても半分正しければその人生には価値があったことになる」

当初は全く受け入れられなかったが、後に実証されることになる新説を出した経験を持っている
飛行機事故の原因となるマイクロバーストの発見である
そのアイディアは、若い時に長崎で行った原爆被害の調査であったという
この点を強調したこともアメリカ人研究者に抵抗感を持たれた原因になっていたのではないか
今ではその対策として飛行場にアンテナが設置され、この種の事故は殆どなくなったという
英語での講演が流れていたが、議論好き、論争好きという印象を持った

博士は退職後、糖尿病で入院を余儀なくされる
友人の話によると、生きる意欲を失っていたので目的を持たせようとしたという
目的として勧めたのが病状の記録で、それに対して純科学的な記録を残している
おそらく、博士の目的は科学の中に限定されていたのではないかと想像させる
それ故、立派な業績を上げることができたとも言えるのかもしれないが、、

このエピソードには最近のエッセイで触れたこととも関係する重要なことが隠されている
それはどこか他のところにある目的に向かうこととそのものだけのために進むこととの違いである
そのものだけのために進むという中の最強のものは、生きることが目的になることだろう
それができれば、科学を失っても意欲を失うことはなかったのではないだろうか

もう一つ改めて見えてきたことは、アメリカの科学者の一般的な考え方の特徴である
それはあくまでも科学の中での思考を重視することである
それ以外を認めない "no nonsense"の世界なのである
今のわたしには非常に窮屈に感じるところでもある


これは今朝の番組だっただろうか
映画の鈴木清順(1923-2017)監督の言葉が印象に残った

「一期は夢よ、ただ狂え」

これも最近のエッセイ、さらには前回の記事と「狂」繋がりである
時差ぼけも悪くない
興味深い出来事が続いてくれた





2017年5月18日木曜日

日本から見えるヨーロッパ精神




久し振りにテレビのある生活に戻ってきた
観るものを選ばなければ、頭の中は大変なことになるだろう、といつもの感想が浮かんでくる
それは、本来われわれが持っている空間を十分に使うことができなくなるという危惧である
厄介なことは、普通の生活の中ではこのことに気付くのが至難の業であるということだ

さて、昨夜、時差ぼけの睡眠から目覚めた時、あるドキュメンタリーが始まったところだった
わたしのテーマになって久しい「偶然は必然である」が浮かび、観ることにした
それは、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のモデルについてのお話であった
この絵はダ・ヴィンチが最後まで手放すことがなかった3点のうちの1点である
アルプスを越え、終の棲家となったアンボワーズまで持って行ったものである

番組には絵画の科学的分析をするフランス人研究者、イタリアの服飾研究家と歴史家が出ていた
まず、彼らの対象に向かう態度に形容し難い余裕のようなものがあることに改めて気付く
それは歴史が齎すものなのだろうか
それ以上に、歴史について振り返るという性質が齎すものなのかもしれない
省察であり、哲学的態度であり、言葉の重視である
それは日頃から感じていることだが、そこにヨーロッパらしさのようなものを見るようになっている
そして、それを好ましいものと考えるようになっている

ドキュメンタリーには、これまで知らなかったことが出てきて、それ自体でも楽しめるものであった
しかし、それ以上に、事実や科学を超えるところにも目が行っている研究者の姿が見えてきた
特に、最後に出てきたイタリアの老歴史家の姿は心打つものがあった
もう少しで、北斎のように「狂」の字が入る境地に至るのではないか
そう思わせる愉快さを感じた


前回の帰国でもヨーロッパに関する番組が少なくないことに驚いた
おそらく、それだけ要求があるということなのだろう
歴史ある日本などは、ヨーロッパにより近いものを感じているということなのではないだろうか
それがマジョリティではなさそうではあるのだが、、、




2017年5月14日日曜日

外国語との付き合い、あるいはなぜ外国語を学ぶのか?




雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイを紹介いたします

第44回 外国語との付き合い、あるいはなぜ外国語を学ぶのか?

 医学のあゆみ (2016.5.14) 257 (7): 803-807, 2016

お暇の折にでもお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします






2017年5月12日金曜日

現象学事始め、あるいは二種類の反省



今日は夕方、急に雨が降り出し、雷が鳴り続いていた
昨日から空の様子がおかしいようである


フランスに渡る前、フランスの哲学教師をやっていた方から仏版ブログにコメントが届いた
そこには、ブログに溢れる活力は現象学的なものの反映であるとの診断が書かれてあった
さらに、私はフッサールやハイデッガーを愛するために生まれてきたとのお告げが添えられていた
このことは以前に触れたようにも思う
しかし、その意味は分からないままである

最近、移動の時にフッサールの『デカルト的省察』を読み始めている
やはり、日本語がピンと来ず、難しい
このような領域は、自分が同じような経験をしていなければ分からないことが多い
それ故、若い時から哲学をやる難しさを想像している
ただ、今日読んだところは言いたいところが分かったような気がした
一次意識と二次意識、あるいは意識の三層構造とも関係しそうに見えたからではないかと思う

それは反省というものにも二種類あるというところであった
一つは日常の出来事について反省するという意味での反省で、われわれが時々行うものである
「直進的」という言葉で表現されている

もう一つはそれとは別で、そこで起こったことや反省していることについて反省するものである
そういうものが存在するのかどうかということについての反省も含む
この場合、根源的な問いかけになるため、フッサールがエポケーと呼んだ過程が必要になる
「判断停止」と訳されていた

我流の解釈では、一度立ち止まって、存在するもの、経験したことを考え直すということだろうか
存在しているものは確かに存在しているのだが、それを現実ではなく現実の現象と捉えるのである
そこに一つのクッションができ、現実を少し離れたところから見る客観性が生まれるように見える
「もの・こと」により深く迫ることができそうである

日常における反省とエポケーを伴う現象学的な反省では記述のされ方も異なってくるだろう
そして、後者により最初の体験の意味が異なってくる可能性さえある
つまり、「関心を持つ」自我の上に現象学的自我が存在するという「自我の分裂構造」を採っている
前者が世界に関わりを持つ自我であるのに対して、後者は「無関心な傍観者」としての自我である

このテーゼがよく理解できるのは、その構造が自分の中にもあることが見えるからである
最初の仏版ブログにその傾向が現れていたということなのだろうか?
そのことには気付かなかったが、あったのかもしれない
自分が書くものの特徴については、なかなか分からないものである
これからも折に触れて、フッサールさんの考えを「反省」してみたい




2017年5月11日木曜日

突然の嵐



本日は曇り時々雨で少々冷えた
昨日発見したところで午前中過ごす
質素なところなので、意外に集中できる
久し振りに勉強しているような気になる

これも久しぶりに夕方から外出
午前中に浮かんだところを纏めるためにいつものカフェへ
あくまでも第一段階だが、 それなりにできたようだ
この地道な営みがこれから求められるのだろう

ところで、カフェに入った途端、もの凄い雨と風が吹き荒れた
窓の外は白くなり、景色は見えず
それほど長くはなかったが、マロニエの花は落ち、辺り一面が真っ白になっている
一瞬の変化の中にいるのもなかなか味があった

今日はそのカフェからのアップとなった








帰り、幾分水かさが増したように見えるロワール沿いを歩いてきた
緑滴る大木の下を水溜まりを避けながら
そんな中を歩いている人を何人か見かけた
素晴らしい気分であった
晴れた夕暮れにあの川沿いで過ごすのも悪くないだろう

そんな気分でバスを待っている時、完璧な虹が現れた
最初にこの町に来た時に見た途中が欠けているものとは違う 
夜の9時過ぎの虹、こういう時に限ってカメラを持参していなかった
何かのご褒美だったのだろうか






2017年5月10日水曜日

興味深いスピンオフ



今朝、最近発見した近くの郵便ポストに投函
そのポストと同様、以前からそこにあったレストランに気付く
これまでそこをカフェ代わりに使おうという考えさえ浮かんでこなかった
そこで暫く読んでみたが、使えそうである
こんな近くにこんなところがあるとは思いもよらなかった
こういう盲点を発見するのも楽しみになっている
実はそれが余りに多くなっているので、楽しみは尽きないのだが、、


ところで、今回のフランス大統領選の後、日本の政治状況が浮かんできた
日本は今沈滞の中にあるという
その沈滞と並走しているように見えるのは、皮肉と揶揄と諦念と時に罵倒の類になるのだろうか
今の問題と真正面から向き合い、新しいビジョンを提示するような人が見当たらない

一見、この沈滞を打ち破るために立ち上がっているように見えるものもあるが、訴えかけてこない
それはおそらく深い思索のなかなら生まれてきたものではないからではないか
出てくる言葉の背後に何かを感じないのである
そう感じたのは、マクロンが少なくとも言葉の上でその方向を向いているように見えたからだろう

この状況を打ち破るにはマクロン的な人物の登場が求められるのではないか
外から見れば1年ほど前には殆ど無名だったというくらいの若い人材、隠れている人材である
既存の野党が機能しない状態では、その枠を超えた思考をする人が必要になるのではないか
そのような人材が出るだけの余裕、スペースがいまの日本にあるのだろうか
悲観的状況をものともせず、既存の勢力を取り込み進むだけの力量を持つ人物は現れるのか
そんな夢想とでも言うべきものが浮かんできた

これは離れているからこそ浮かんできたものかもしれない
と同時に、今回、大統領選のカバーをしていなければ、こんな夢想も生まれなかっただろう
そう考えると、面白いスピンオフと言えるのかもしれない






2017年5月9日火曜日

哲学者ポール・リクールとエマニュエル・マクロン



フランス現代の哲学者にポール・リクール(Paul Ricoeur, 1913-2005)がいる
彼は自らの仕事を偉大なテクストを読み続けることと考えていた
巨人の肩の上の小人に例えながら
この哲学者とマクロンの意外な接点を知ることになった

マクロンはリクールの助手をしていたという
その時に前世紀について学び、歴史を考えることを学んだと選挙前に出した本で述べている
さらに、リクールについてESPRIT誌に論文も書いている
タイトルは、La lumière blanche du passé. Lecture de la Mémoire, l'histoire, l'oubli
リクールの『記憶、歴史、忘却』を読んでの考察になるのだろうか
この本にはマクロンへの謝辞も書かれているという

それ以来、リクールと関係のあった次のような人に深い影響を受け、変容して行ったと語っている
 
 オリヴィエ・モンジャン(Olivier Mongin, un écrivain, essayiste et éditeur français, 1951-)
   ESPRIT誌の編集長を1988年~2012年まで務めた
 フランソワ・ドス(François Dosse, un historien et épistémologue français, 1950-)
 カトリーヌ・ゴールデンシュタイン(Catherine Goldenstein
 テレーズ・デュフロー(Thérèse Duflot)


特に選挙戦後半だが、彼の主張には意外と背骨となっているものがあるような気がしていた
彼の中にある進歩への信仰や自由の尊重、フランスやヨーロッパへの強い思いの背後にあるもの
言わば、啓蒙思想そのものを推し進めようとする力になっているもの
それは文学や哲学の素養に裏打ちされているのではないか
さらに、痛みの癒しや和解という言葉の背後にはリクールの哲学が反映されていたのではないか

単なる政治・金融の技術だけではなく、そこから距離を取ることを可能にする文学や哲学からの目
彼はそれを持っていて、それが彼を動かす力になっていた可能性がある
これから調べなければならないが、興味深い視点を得ることができた












2017年5月8日月曜日

進歩という概念



啓蒙時代について少しだけメモしておきたい

18世紀に近代的な意味での進歩の概念が現れた
科学、芸術、哲学による知の発展が人間性の完成に導くという今に続く考え方の基本が生まれた
この時期に、古代人と近代人の論争があったことを知る
昔がよかったのか、今の方が優れているのかの論争で、新旧論争とも言われる

古代の作家を模倣することを勧めたニコラ・ボアロー(Nicolas Boileau-Despréaux, 1636-1711)
近代の優越性、創造的なイノベーションを主張したシャルル・ペロー(Charles Perrault, 1628-1703)
デカルト主義者のフォントネル(Bernard Fontenelle, 1657-1757)がペローを支持
進歩の概念が生まれ、それがフランス革命にまで至る


大統領選関連

昨日、予想通りマクロンが選ばれた
これからマクロンが国内に広がっている不満と分断を緩和できるのか否かが問題になるだろう
それ如何では、ル・ペンが主張している政策が魅力あるものに見える時が来るかもしれない
その点に注意しながらこれからの政治を見ていきたい
ここで、選挙後のそれぞれの会見と今日の式典の模様を貼り付けておきたい
















今回のカバーで少しだけ現世に近付いたように感じている
今日でこのシリーズを一応終えることにし、また何か出てきた時には改めて観察することにしたい





2017年5月7日日曜日

女性美術展を観る



昨日、ホテル・グアン(Hôtel Goüin)の前を通ると、女性をテーマにした美術史展が開かれていた
土曜のこともあってか、前回とは異なり、非常に賑わっていた
絵画や彫刻の名作を現代の女性が演じ、写真に収めたものが作品であった
すぐに森村泰昌氏の作品を思い出した
しかし、あそこまで原作に忠実にすることには執着しておらず、ずっと自由である
前回来た時には写真撮影は禁止されていたが、今回はOKであったのでいくつか紹介したい









久し振りの至福の時間となった






2017年5月6日土曜日

フランス語のクラス、終わる

   フランス語クラスの面々


昨日は久し振りにCUEFEEでの最後のフランス語クラスに顔を出した
実は教室が変わっていたようなのだが、そうとは知らずスペインからの女子学生と暫く待っていた
そこに先生(Pr Amaury Théret, 写真最後列)が現れ、新しい教室まで15分ほど歩く

最後のクールにはわたしを含めて9名が出席
普段の半分くらいだろうか
ドイツ(2名)、中国(2名)、メキシコ、スペイン、モンテネグロ、スコットランドからの学生さんであった
記憶が正しければではあるが、、
内容はSAMBAという映画の鑑賞であった
最後に記念撮影をお願いして快諾していただいた

12回、3か月に及ぶクールだった
余り進歩は期待できそうにないと判断、皆勤とはならなかった
ただ、籠る生活から出て、音としてのフランス語に反応する楽しい時間であった
殆どが20代前半の皆さんだが、しっかりしていて自らの学生時代を思うと感心せざるを得ない
皆さんのこれからの飛躍を期待したい










2017年5月4日木曜日

選挙前最後の討論会






次の日曜が投票日になった第2回投票
その前の最後の一対一の討論が昨夜あったので貼り付けておいた
ライブでは聴けなかったが、後から少しだけ見た

前回見た予想ではマクロンが6・4で優勢だったが、少し減少傾向が見られた
しかし、その後の経過は平行線で全く変わっていない
おそらくマクロンが勝つのではないかという中でのデバになった

現実の政治を知らない身なので、あくまでも討論での見え方からの結論になる
インテグリティから見て、マクロンが圧倒していたようだ
彼は終始ル・ペンを諫めるような態度を見せた
発言には嘘があり、憎しみや分断をフランスに持ちこんでいる
それは国民戦線がここ10年以上の間で取ってきた戦略である
国民戦線の描く家族や国の姿はフランスの本来の姿ではなく、わたしの描く姿でもない
フランスは啓蒙の国、開かれた国で、国境を閉じることとテロ防止とは関係がない
問題に向き合い、それに打ち勝っていくという前向きの考え方で進める
これまで分断されてきたフランスを和解に導きたい、と力強かった

ル・ペンの訴えはスローガンが先に来て、細かい政策、財源などをはっきり示せなかったようだ
その点ではややアジ演説に近く、現状への不満を煽る後ろ向きの印象を与えるものになった
テロ対策として、イスラム原理主義者を国外追放するとしていた
国内にいる外国人一般に対しては、フランス人と同様に扱うと当初から表明していた
ただ、これまでのFNの歴史を見ると、人種差別的な見方がいつ噴出しないとも限らない印象もある
それから、負けを覚悟していたのか、皮肉や揶揄が多いのも気になった

総合すると、討論でもマクロンの方が優勢という印象を持った
一夜明け、どちらが説得力があったかという国民の評価も63対34でマクロン
フィヨン支持者では58対38、メランション支持者でも66対30とマクロン優勢
どちらが誠実であったか?どちらが自分の価値観に近いか?という問いでもマクロンが6割を得た
ただ、討論後の統計によると、両者の差はやや縮まり、55%対42%とのこと

それから、討論中の両候補の発言の正誤を評価する記事もあった
post-truthの時代では不可欠になりそうな検証である
これを見ると、政治家は恰も本当のことのように嘘をつくことが分かる
これも若干マクロンの方がよいという印象だ

これはこちらでいつも感じていることだが、討論とは言葉による激しい格闘技だということだ
イメージ、スローガンではなく、理念、具体的な政策について言葉で表現して闘わなければならない
ル・ペンは資料に頼っているところがあったが、マクロンは何も見ないで議論していた


今回、10年目にして初めて政治の世界を覗くことになった
政治を含めて外の世界を観るということは時間を要することである
その分、内に向かう時間が奪われる
これまで現世の動きに無頓着であったのは正解だったような気もしてくる







2017年5月3日水曜日

ぼんやりすること、再び



先週末から毎日が土曜日という感覚の中にある
月曜が祝日だったためなのか、日本が大型連休の中にあるためなのかは分からない、
今は全く関係がないはずなのだが、週の中で一番ほっとする曜日が土曜になって久しい
仕事が終り、もう一日休みがあるというあの感覚である

偶然はいつも何かを齎してくれる
Youtubeを開いてみると、以前に世の中を騒がせた新垣隆という作曲家がリストに出ていた
難聴の作曲家のNHK特集を帰国していた日本で偶然に見たことがあった
事態が明らかになった後に開かれた記者会見で、氏が正直に語っている姿が印象に残っていた
そして、再びの偶然で氏がいろいろな活躍をしていることを知ることになった
ある番組の中で、作曲する時にはぼんやりすることが大切なんです、とぼそっと語っていた
騒々しい番組だったので、周りの人の耳には届かなかったようである
以前のわたしであれば聞き逃していた言葉になるだろう
しかし、その意味がよく分かるようになっている今、なるほどと思いながら聞いていた

人の話を聴いて面白いと感じるのは、このぼんやりした時間が持っていることを想像させる場合だ
学者の話が概して面白くないのは、事実に埋もれ、この時間を経験していないからではないか
つまり、意識の第三層にまで入り切れていないのである
芸術家の場合には、ぼんやりした状態が創造に繋がるのだろう
普通の人間にとっては、哲学に繋がるものである
ひょんなところから、ぼんやりすることの意味を確認することになった












2017年5月2日火曜日

瞑想の効果?



本日は朝から小雨
外気を入れながら代り映えしない景色を眺めている時、こんなことに気付いた

特にトゥールに来てから、受け入れる容量が増えているのではないか
例えば、以前では到底無理だったと思われる多数のプロジェを同時進行させること
殆ど気にならなくなっている
それから、日常におけるいろいろな出来事に対しても許容範囲が広くなっているように感じる
そのため、ストレスというものがなくなっている

極言すれば、全世界を受け入れるという気持ちが生まれている
そのために脳の空間を極限まで広げるという感覚があり、実際に広がっているように感じている
いや、より正確には、それは殆ど無意識のうちに行われているような気がする
勿論、すべてが錯覚ということもあり得るのだが、、
それが錯覚にしても、その錯覚は精神に非常に良い影響を与えているようである










Liberté

Paul Eluard
Sur mes cahiers d’écolier
Sur mon pupitre et les arbres
Sur le sable sur la neige
J’écris ton nom

Sur toutes les pages lues
Sur toutes les pages blanches
Pierre sang papier ou cendre
J’écris ton nom

Sur les images dorées
Sur les armes des guerriers
Sur la couronne des rois
J’écris ton nom

Sur la jungle et le désert
Sur les nids sur les genêts
Sur l’écho de mon enfance
J’écris ton nom

Sur les merveilles des nuits
Sur le pain blanc des journées
Sur les saisons fiancées
J’écris ton nom

Sur tous mes chiffons d’azur
Sur l’étang soleil moisi
Sur le lac lune vivante
J’écris ton nom

Sur les champs sur l’horizon
Sur les ailes des oiseaux
Et sur le moulin des ombres
J’écris ton nom

Sur chaque bouffée d’aurore
Sur la mer sur les bateaux
Sur la montagne démente
J’écris ton nom

Sur la mousse des nuages
Sur les sueurs de l’orage
Sur la pluie épaisse et fade
J’écris ton nom

Sur les formes scintillantes
Sur les cloches des couleurs
Sur la vérité physique
J’écris ton nom

Sur les sentiers éveillés
Sur les routes déployées
Sur les places qui débordent
J’écris ton nom

Sur la lampe qui s’allume
Sur la lampe qui s’éteint
Sur mes maisons réunies
J’écris ton nom

Sur le fruit coupé en deux
Du miroir et de ma chambre
Sur mon lit coquille vide
J’écris ton nom

Sur mon chien gourmand et tendre
Sur ses oreilles dressées
Sur sa patte maladroite
J’écris ton nom

Sur le tremplin de ma porte
Sur les objets familiers
Sur le flot du feu béni
J’écris ton nom

Sur toute chair accordée
Sur le front de mes amis
Sur chaque main qui se tend
J’écris ton nom

Sur la vitre des surprises
Sur les lèvres attentives
Bien au-dessus du silence
J’écris ton nom

Sur mes refuges détruits
Sur mes phares écroulés
Sur les murs de mon ennui
J’écris ton nom

Sur l’absence sans désir
Sur la solitude nue
Sur les marches de la mort
J’écris ton nom

Sur la santé revenue
Sur le risque disparu
Sur l’espoir sans souvenir
J’écris ton nom

Et par le pouvoir d’un mot
Je recommence ma vie
Je suis né pour te connaître
Pour te nommer

Liberté.


Paul Eluard
Poésie et vérité 1942 (recueil clandestin)
Au rendez-vous allemand (1945, Les Editions de Minuit)










2017年5月1日月曜日

メモの絶大な効用



本日はメーデーで、交通機関も含めてお休みのはず
籠ることにした

昨夜は久し振りに寝る前にいくつかアイディアが浮かんだ
それは、いま手の内にあるものの全体を思い浮かべた時のことであった
そのまま寝ようとしたが、メモしておいた
先日メモのことに触れたことが後押ししたのだろう
予想通り、朝起きると完全に忘れていたので正解であった

アイディアの一つは、何日か前に引っ越しの箱に入ったままの本を目にしたことから出ていた
それはフランスに渡る前に手に入れた上下二段で1000ページになろうかというものである
それまで、このような大部の本は買ったことがなかった
読む時間などないことを知っていたからだろう
当時は雑然とした内容に感心しなかったが、いずれ何かの役に立つだろうと思ったのだろう
あるいは、フランスに向かう記念にとでも思ったのかもしれない
しかし、この10年間、それに触れることはなかった

ところが、その本を取り出し、読み始めて驚いた
この10年ほどの間に蓄積され、関連付けされていた塊がある
現在の私の問題と言ってもよいものだ
驚いたのは、今の塊を超えて頭の中に散らばっていた他のものが一気に繋がってきたことである
このような感覚が襲ってきたのは久し振りである
いつも暫くするとその驚きは薄れていくのだが、今回はどうだろうか?