2017年6月27日火曜日

奈良で会話の文化を楽しむ



今日は午前中、仕事をやった後、奈良に向かった
奈良女子大学の渡邊先生と雲島先生とお会いしてお話をするためである
私にはじめじめとした一日であったが、少し前は酷かったらしい
古い街並みや田舎の景色を味わった後、指定の場所に伺った
古民家を改造したところで、畳の上で食事するのは久し振りであった
奈良のお酒とお料理も満喫した
しかも雰囲気のある庭を眺めながらで、あっという間に3時間以上が過ぎていた

渡邊先生は大学の仕事の他に学校の校長先生もやられているとのこと
大変ではないかと想像したが、柔軟にこなされているようで、適任ではないのではないだろうか
お話も科学の中だけに止まらず、幅広い経験と教養に裏打ちされているので、興味深かった
一方の雲島先生は英国の大学院で文学を修められたとのことで、日本語のように英語を操られる
しかも哲学にもその手を延ばされようとしているので、話に追いつくのが大変であった
ということで、話題は途切れることなく、多岐に亘っていたと言えるだろう

最近、古代の哲学の中に埋もれているので、現代の視点から突っ込まれると動きが取れなくなる
これから先に長い道のりが待っていることが見えてくる
しかし、このように異分野の人が言葉を交わすことは何かを生み出すことに繋がるような気がする
その元にあるのは、会話の文化を大切にしようとする精神のようなものではないだろうか
この問題は今日の話題にもなっていたが、お陰様でわたし自身は大いに刺激を受けた
日本を行脚?しているのもその自覚があるからではないかと想像している

いずれにせよ、豊かな時間を味わうことができた
お二方には改めて感謝したい
そして、又の機会が巡ってくることを願いたい





2017年6月26日月曜日

大阪で昔の研究者仲間と語る

            久野高義先生


今夜は神戸大学で教鞭をとられていた久野氏とのディネがあった
科学者の時代からお付き合いはあったが、退職してからはほぼ毎年お会いしているのではないか
今日はお忙しい仕事の合間を縫って、大阪で時間を作っていただいた
感謝したい

まず、近況についての話があった
日本社会の現実にも関わりを持っておられ、こちらの想像を超える世界を目撃されている
雲の上に生活している者には触れたくない世界である

それから、仕事を終えてからの工夫として、定期的に仕事をするようにしているとのこと
丁度、今日はその日に当たったようだ
研究面では、現役の時からアジアとの交流をされていたようだが、今も模索されているとのこと
中国、ネパール、東南アジアなどに実際に出掛けて行くこともお考えのようである
未だ研究への意欲が衰えていないとお見受けした
こちらのプータロー状態とは大きな違いである

ネパールのものだっただろうか
健康についてのアドバイスがあるとのことで、貴重な助言をいただいた
体に悪い第一はタバコ、第二は座ってばかりいることとのこと
これはわたしが日頃からやっていることだが、直ぐに改めることは難しそうである
プラトンが言うように、身体が滅び、精神だけになるのが哲学者だとすれば、無理からぬところだ
ただ、われわれは現代に生きている
フランスに戻って、一考する値はあるのではないか

アジアが中心であった先生は、ヨーロッパの主要国をまだ訪問されていないとのことであった
近い将来、フランスにも足を延ばす機会が巡ってくることを願いたい






2017年6月25日日曜日

今日から関西



今日から関西に移動した
何人かの方とお会いするためである
こういうことが気にならないのは、外から、あるいは上から日本を見ているからではないのだろうか
日本に落ち着いてしまうと横の移動になるので、その間にあるものが邪魔をして難しそうである

いずれにせよ、今日は数年来の友人とのデジュネとなった
若い方との議論はなかなか噛み合わない
それは当然のことなのかもしれない
これから人生を歩み出そうという人と人生をどう纏めるのかを考えている人の間の溝である
これを埋め合わせるのは至難の業で、溝は最後まで残るのだろう

今日は一息して、明日から最後の準備に取り掛かりたい





2017年6月24日土曜日

第1回ベルクソン・カフェの初日が終わる



今日の夕方から、フランス語で哲学のテクストを読む第1回のベルクソン・カフェがあった
当初予想していたのは2-3名の参加であったが、他のカフェと変わらない人が参加された
これは嬉しい誤算であった
参加された皆様には改めて感謝したい

今回はどのようにやればよいのかを決めかねた中でのスタートとなった
結局、テクストをそのまま読むというスタイルで行った
最初は講師からスタートしたが、希望する参加者数名にも読んでいただいた
まさに、大学の講読コースと同じだとの声も聞こえた
ただ、フランス語という外国語を解読するという過程そのものに魅力を感じている方もおられた
中には、テクストの翻訳をプリントされてきた方もいて、これから参考になるものと思われる

来週の土曜に予定されている二日目も基本的には同じスタイルになるものと思われる
ただ、最初に全体の構図や問題点などを説明してから始めるようにしたい
これは今日の反省から生まれた改善点である
次回は今回よりもスムーズに進むように努めたい
読んでみたい部分をお持ちの方は積極的に参加していただければ幸いである  


ところで、今日選んだテクストはピエール・アドーの「生き方としての哲学」であった
それまで、歴史家は哲学的言説だけを古代哲学の中に見ていた
しかし、アドーが古代哲学の中にはもう一つの要素があることを見出したのである
私がこの言葉に2006年に触れたことが、哲学への後押しをしたと感じている
その意味ではその根を考え直そうという意図もあった

このエッセイでは、ヘレニズム時代、ローマ時代の哲学の特徴が分析されている
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、エピクロス、犬儒派、懐疑派、ストア派などが出てくる
そこで指摘されているのは、次のようなことである

哲学はそもそも手に入らない知に向おうとする運動で、そこに逆説と偉大さがある
哲学は根源的な回心、根源的な変容を要求する精神(魂)の進歩の一つの方法である
哲学は自律性、内的自由(autarkeia)、自足性を達成するための方法である
それだけではなく、特にストア派とエピクロス派では宇宙的意識が加わった
すなわち、われわれが宇宙の一部を構成しているという意識である

さらに、哲学は人生と一体化した永続性ある行為で、絶えず更新されなければならないと指摘する
ストア派の場合、人間の意志が宇宙的自然の意志、すなわち理性と一致すること
エピクロス派では、快楽、それは結局のところ存在する悦びになるが、それを求めること
人生の有限性の自覚と現在への集中を説く
なぜなら、それだけがわれわれがコントロールし得るものだからである
そして、そこには宇宙の全体が含まれ、関わっているからでもある

ここで問題となるのが、ストア派が提唱した「哲学についての言説」と「哲学そのもの」の違いである
哲学とは、構成要素の理論を語ることではなく、それらを生きなければならないと説く
構成要素とは物理学、倫理学、論理学である
それらを生きるとは、それぞれ、宇宙を瞑想し、正しく行動し、よく話し、よく考えることである

ここでアドーは、哲学についての言説は哲学ではない、と言っている
エピクロス派の「哲学者の言説が魂の病を癒すことがなければ、それは空疎である」を引いている
この点は議論の余地のあるところだろう

後半はどのような展開になるのだろうか?


文章を読んでの感想がある
自然科学者であれば、もう少し無駄や反復が少ない、構成も整った文章を書くのではないだろうか
そうした方が論点をより効果的に伝えることができるのではないかと想像されるからだ
しかし、そうはなっていない
文系の人の頭の使い方が違っていると思わざるを得ない


会は当分の間、試行錯誤が続くものと思われるが、ご理解をいただければ幸いである
今日のテクストにもあった通り、これからも変容を続けて行きたいものである



会のまとめ






2017年6月23日金曜日

成熟過程における 「ゆったり、ぼんやり」 の必要性



日本の近代に関する本を読んでいる時、よく分かるというか、共感するところに出くわす
まさに想定外の出会いであった

まず、19世紀イギリスのジャーナリスト、ウォルター・バジェットという人の分析が紹介されている
前近代と近代を分けているのは、「慣習による支配」か「議論による統治」かであるという
慣習とは身分とか内向きに環境を支えているものだが、必ずしも全否定しているわけではない
対する議論による統治は単なる行動愛が支える、一人が勇ましく決める政治と対極にあるもの
それは熟考による時間をかけた議論による政治だという
その前提になるのが、多くの時間を日の当たる場所に寝そべること、単なる受動性だという
ここに痛く感心した

これは私がこの10年余りの間にやってきた「ゆったり、ぼんやり」そのものだったからである
そしてそれこそが、考える上で最も重要なことだと思うようになってきた
哲学の前提だと考えるからである
それがどんなものなのかを説明しているこんな一節がある
同時代人が夢想者と考えた人々、同時代人の関心を引かないことに注目していたために嘲笑された人々、噂にいう星を見ながら井戸に落ちた人々、無用だと信じられた人々がもたらしたものである
メディアで目立つことが横行する現代において、最も欠けているのがこれではないだろうか


さらに「あとがき」にも興味深い認識が出ていた
それは「青春期の学問」に対する「老年期の学問」の在り方である
若い時の学問は狭い領域で競い合う性格が強い
しかし、老年期においてはより広い視点からの研究が求められるのではないかというのだ
言わば、general theoryを目指すような研究である
これもよく分かる指摘である
ここでも「ゆったり、ぼんやり」が欠かせないのだ

ということで、中間にある本題は後回しとなった




2017年6月22日木曜日

正岡子規、あるいは 「狂」 再び



昨日、今日と非常に集中力が上がっている
いつものことかもしれないが、終りに近くなると生活のペースに慣れてくるようだ

先日手に入れた子規関連の本の中に、次の一節があった
「狂」 繋がりで書き留めておきたい
昔から日本の人のえらくもない癖に 「まじめくさつて」 居るのが最も気にくはず。学者でも狂する位でなければ学問が進歩する気遣ひは無いのに、少しばかり出来ると最う天狗になつていやに 「すます」。今でも同じ事ぢや。済度が出来ん。

今日は明治時代の人物が出てくる新書を数冊仕入れた
こちらにいる間に読んでおかなければ、いつになるのかは分からないのだが、、




2017年6月21日水曜日

最たる生きる楽しみ?



今日は朝から雨に降られている
相変わらずの作業が続いている
ただ、これまでにやって来たいろいろなカフェの内容と絡んでくるところがある
このように、いろいろなところに糸が絡み合ってくるような感覚は何ものにも代え難い

同時に無駄なものは何もないということも見えてくる
何気なく在った過去が現在に繋がってくる時がある 
無関係と思われたことが意味を持ってくるという感覚も捨て難い
これは生きる楽しみの最たるものかもしれない
そんなことを思った雨の朝
不思議な乗り物を見た



2017年6月20日火曜日

静かに準備を



今週は落ち着いた週になっている
今回の最後の会になるベルクソン・カフェのための準備を静かに進めている
テクストを読み直すと、まだミスタイプが見つかる
このブログでもそうだが、そこにあるのに見えないのである
こればかりは、何度も見直すしかなさそうである

改めて、テクストを読むということの奥深さと難しさを感じている
目の前にある言葉に潜む意味だけではなく、文章の背後にある歴史を探ると限がなくなるからだ
どこかで止めなければ前には進めない
この状態を逆から見ると、テクストを作ることも至難の業であることが見えてくる
本屋さんに入ると並べられている膨大な数の本
作る側はどこでどうやって止めているのだろうか?





2017年6月18日日曜日

アンジェイ・ワイダ監督 『残像』 を観る



今日も週末気分で、朝の内、少し離れた領域を読む
午後から街に出て久し振りに歩く
体が重く、汗をたっぷりかく
しかし、その後、その昔よく入ったことがある昭和の香りがする食堂でデジュネ
日本ではしっかり食べている
寧ろ、食べ過ぎと言った方が正確か

それから古本屋街を散策
アンジェイ・ワイダ監督の遺作と銘打ってある 『残像』(Powidoki)を観る






この手の映画はこれまで何度も観てきたように思う
国家権力にかかると人間一人の命など吹っ飛んでしまう
それがいかに優れた才能であっても
あるいはそれ故に国家は狙うのか
これは洋の東西を問わない
バディウ氏が言うように、それは哲学的状況である

先日のSHEで取り上げたヘッケルは、政治は応用生物学である、と言った
そういう人の言葉がナチスによって利用され、彼の責任を問う人さえ現れた
例えば、国家を有機体に例えて、生物学の成果を当て嵌めようとする人がいるとする
生命体は一つひとつの細胞よりは全体の命を第一にしている
全体の統一を維持するために、細胞死を誘導することさえある
したがって、と言って、この原理を社会に当て嵌めることは正当だろうか
安易に行われることがあるこのやり方には注意を要することが分かる

社会の中の問題は文化の側が考えなければならないのではないだろうか
そこでは国家権力との距離を文化の側が取ることが求められる
そこから自由である必要があるのだ
今日の映画では、政治と芸術の融合などと言っていた
イデオロギーのない芸術など存在価値がない、というわけである
文化活動が国からお墨付きを得たといって喜んでいるのはどうなのか
本来的には野にあってやるべきことのはずである


帰りは雨に中った





2017年6月17日土曜日

久し振りの週末気分、そこで味わう100歳気分



今回は新しい試みを2つ始めたので、体力と知力が耐えられるのかも注目点であった
昨日で新しい試み一つとこれまでやっていた会を終えることができた
残るはこれまでとは毛色の違うフランス語のテクストを読んで考えるベルクソン・カフェだけになった
このような経験がないので、どのようなことになるのか全く想像もできない

いつも願っていることは帰国前に準備を済ませておきたいというものだが、実現した例しがない
それは長い間に習い性になった最後の最後まで考え続けようという気持ちの表れなのだろう
最後まで形を作ることを拒否しているようなのだ
そう思うしか、この苦しみに耐える道はなさそうである


今日は久し振りにゆったりした週末にすることにした
日本に着いてから知った映画でも観ようという趣向である
いずれ訪れると言われている人生100年時代
自分に関係あるのかないのかは別にして、その姿を見ておこうという気持ちもあった

笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ







前回か前々回の帰国時に、やはり100歳を越えた芸術家のドキュメンタリーを観たことを思い出す
調べると篠田桃江さんであった
映像まであったので観直すことにした






笹本恒子さんには最後まで女性が残っている
しかし、篠田さんの内には男性が住んでいるかのような存在感を感じさせる

映像の中に、雲を眺めて雲の様子を語っているところがあった
やはり雲を眺めて暮らしているわたしには、彼女の言っている意味が手に取るように分かった
それから、自分の人生は地に足がつかない非現実の世界であったというのもよく分かった
これらのことが理解できるというもフランス生活のお陰と言ってよいだろう

いずれにせよ、われわれが若い時には想像もできなかったような世界が展開している
どう対処するのか、それぞれが答えを求められているようである


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lundi 19 juin 2017

むの氏が「自分を土台から作り直す」つもりで戦後を歩んできたと言っていたのを思い出す
それほど激烈ではないにしても、わたしのフランスも同様の含みを持っていたことが見えてくる
"le remaniement" とでも言うべき、頭の中の作り替えである
その過程は未だ進行中であるのは言うまでもない




2017年6月16日金曜日

第11回サイファイ・カフェ SHE、無事終わる



今日は11回目になるサイファイ・カフェSHEがあった
今回は芸術と科学の融合を目指したエルンスト・ヘッケルという19世紀ドイツの科学者を選んだ
ダーウィン生誕200年、『種の起源』出版150年、ラマルクの『動物哲学』出版200年だった2009年
二つの会に参加した
一つはイスラエル(テルアビブとイェルサレム)で開かれたラマルクについての会議
もう一つは、英国ケンブリッジで開かれたDarwin 2009である
両方の会議で話をされていた方が2010年カナダであった「環境と歴史」会議でも発表された
その中に、人生を悲劇的に捉えていたという芸術家が科学者になったような人物が登場した
それがヘッケルだったのである
そして、この人物を紹介していたのがシカゴ大学の歴史家ロバート・リチャーズ博士であった
すでにヘッケルについての本 The Tragic Sense of Life (2008)を出されていることを知った

今回はそのヘッケルを取り上げ、複雑な人生と科学を考えることにした
そのことにより、科学のあり方について示唆が得られそうな気がしたからである
いくつかのポイントについて振り返った

まず、科学と芸術の関係である
絵画の才に長けた科学者だった彼は芸術と科学の融合を目指していた
ロマン主義が根強く残るドイツで、ゲーテやフンボルトのような科学者の影響を受けていた
それは論理や理性一辺倒の科学ではなく、主観や芸術などが絡んでくる世界であった
しかし、19世紀後半は科学が他の世界を切り捨て、科学主義的傾向を見せ始める時期でもあった
この両者の軋轢が彼の科学者人生にも影響を及ぼすことになった

それから彼はドイツにおけるダーウィン進化論の強力な喧伝役になる
「ダーウィンの犬」と呼ばれたイギリスのトマス・ハクスリーと並び称された
なぜ彼はそこまで進化論にのめり込んで行ったのか?
そこには彼が若くして経験した悲劇があったとリチャーズ博士は見ている
それが結婚2年にも満たない若妻の死であった
それ以降、この世界の見方が大きく変容することになったというのである

その他にも、彼が始めたエコロジーという学問はどのような思想から生まれたのか?
彼の人生には科学における不正行為の批判が付き纏ったが、実態はどうだったのか?
「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説の評価はどうなのか?
などの点も問題として取り上げた
また、ナチスに利用されることになった彼の思想はどのようなものだったのか?
人生後半に打ち込むことになる一元論運動の実態などについては詳しく見る時間がなかった

今回も議論が途切れることなく、広がっていたように感じた
そして、その議論は懇親会においても続いていたようである
お忙しい中、参加された皆様に改めて感謝いたします


会のまとめ







2017年6月14日水曜日

子規庵と書道博物館を訪ねる



昨日は小雨降る中、鶯谷まで足を延ばした
友人に勧められた子規庵書道博物館を訪れるためである
この辺りは、恰も家の中を歩いているようなこじんまりした居心地の良さがある

子規庵は何ということはない日本の昔の家屋で、記憶を刺激するものがあった
第二次大戦で焼失した後に復元されたものとのこと
八畳の居間と子規終焉の間にゆったりと座りながら、雨に濡れる庭を眺める
時に映像に現われる子規の句を追う

久し振りに自分の中の根のところにあるものとしっくりと合う時空間に身を置くことができた
雨がその感覚を補強していたようにも感じた
それは平穏な気持ちに導いてくれるもので、至福の時間であった
訪れる僅かな人もそれぞれ静かにものを想っているようであった


  左は八畳の居間、右が終焉の間、糸瓜の棚が見える


雨の庭に出て、暫くその中にいた
子規について少し読んでみたい気になり、ショップで金太郎飴と共に何冊か手に入れた





子規の絶句三句が碑になっていた
糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな
痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず
おとといの へちまの水も 取らざりき


          中村不折(1866-1943)


書道博物館は子規庵の向かいにあった
画家で書家の中村不折が集めた書道史における重要資料を展示している
石に刻まれた文字と静かに向き合う

小さな四角の空間に線を入れて区切っていく漢字
しかも同じ文字でも多様な区切り方がある
絵画にも通じる小宇宙がその四角の中で展開されている
途方もない世界である

画家の後、その世界に入って行った不折
書を見るという経験が少ないのでその書体が新鮮に映った
不折による漢詩をフランスでゆっくり味わうことにした




小さな庭だったが、雄大な自然の中にいるようにも感じた


雨に降られながらの一日
夜は半世紀ほど前からの友人とのディネ
イタリア語に凝っているようで、イタリア山中での語学留学から帰国したばかりとのこと
動けるうちに、という気持ちもおありのようだが、お元気そうで何よりであった
例のプラトンの哲学者=死者の話をすると、もう仙人ですね、との感想
そんな感覚は全くないのだが、、

実はお隣に話し方はゆっくりだが、次から次に注文するお年寄りの女性がいるので気になっていた
本当にお肉でよろしいのですか?まだお食べになるのですか?などという料理長の声が聞えた
後から知らせていただいたのだが、御年90の女優野村昭子さんとのこと
私の目にはそのようには見えなかったのだが、、
いずれにせよ、あのくらいの健啖家でなければ長生きできないのか





2017年6月13日火曜日

学友との語らい、再び

   池田、深津の両氏


昨夜は学生時代の友人との会食となった
5年程前から帰国の度にセットアップしていただくようになっている
どうしてそうなったのか、はっきりとは思い出さない
が、おそらく深津氏が私の教育講演を聴きに来てくれたことが切っ掛けではないかと思う
いずれにせよ、それ以来、興味深いお話を伺う機会となっている

昨日の話題で目立ったのは、体のことであった
わたし自身は殆ど取り上げることがないテーマになる
今回のカフェフィロPAWLの記事でも触れたように、哲学者の体は消えるからである
プラトンの言うところがよく分かるようになった者にとっては、精神だけが注目に値するからだろう 

その他にもいろいろな重要な問題が出ていた
まず、現在の惨憺たる政治状況だろう
私の「意識の三層構造」説がお二人には浸透しているようで、議論の中によく出ていた
例えば、第三層が全く欠けた人たちが政治をやっている
さらに言えば、一・二層だって怪しい
しかし、それは選ぶ側も同じ状態なのでその欠落が見えずに選んでいる反映ではないのか
といった具合である

また、日本における思想や哲学の力、思考する力が弱くなっているのではないか
ヨーロッパに見られる第三層を重視しようとする歴史の重みのようなものがないのではないか
というような観察も出されていた
それに関連して、日本あるいは日本人の自らを対象として考え、分析する力の弱さを指摘した
このオートクリティークの力を育てるためには、自らの第三層を開拓するしかない
しかし、その認識がなさそうに見える
それが対象をしっかりと捉えてその本質に迫るということの欠落の原因にもなっている
この前段がなければ、クリティークにまで至らないだろう
このような現象を捉え、議論をする時にも三層構造理論は有効ではないかと言っていただいた
科学的な実証は難しいのだろうが、主観的にはよく分かる、という感じだろうか


お二方ともまだ仕事をされているとのこと
プータロー状態10年になろうかという者から見ると、ただただ頭が下がる思いである
「我ら一・二層族」と冗談を飛ばしておられたが、お元気で更なる活躍を願いたいものである
次回の帰国時にもこのような機会を作っていただけるとのことであった
その時はどのような話が展開するのだろうか?
今から楽しみである





2017年6月12日月曜日

作るのではなく、生まれいずるのを待つ、そしてネガティブ・ケイパビリティ再び

      馬越恭平(1844-1933)



雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイを紹介いたします

第45回 作るのではなく、生まれいずるのを待つ、そしてネガティブ・ケイパビリティ再び

医学のあゆみ (2016.6.11) 257 (11): 1187-1191, 2016

お暇の折にでもお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします






2017年6月11日日曜日

研究者時代の諸先生と語り合う

   田村真理、菊池九二三、小林孝安の諸先生


一仕事終えた感じの翌日、もう一仕事するために仙台に来た
昔、同じ研究領域にいたお三方と旧交を温めようという魂胆である
田村、小林先生とは昨年も顔を合わせたが、菊池先生とは本当に久しぶりになる
先生は退職後は晴耕雨読の生活を送られているとのこと
私には答えることが叶わなかった哲学に関する質問も含め、存分に語っていただいた

ポイントだと思ったのは、今の日本人は忙しすぎる、という指摘であった
それは十分な思索がされていないということと同義になるだろう
忙しい中から豊かで深いものは生まれてこない
意識の第一層にしか止まれないからだ
静かな時間の中で生活されているからこそ見えてきた観察になるのだろう
そう想像することができるようになっている

それから、拙エッセイについてのコメントがあった
一つは、全体が音楽のように感じられるというもので、驚いた
さらに、読後に気持ちが平穏、平静になるという言葉があり、これにも驚いた
エピクロスやアリストテレスなどに言わせれば、それは人を幸福な状態に導いていることになる
そんな効果があるとすれば、まさに魂のお薬のようなものになるのではないか
信じられないことである
フランスでの「ゆったり、ぼんやり」の生活がどこかに反映されているのだろうか
私は内側からしか見ることができないので、外からどのように見えるのかは全く分からない
その意味では、貴重なお言葉であった

皆様お元気そうで何よりであった
改めて機会を作り、お会いしたいものである

明日、東京に戻る





2017年6月10日土曜日

第1回サイファイ・フォーラムFPSS、盛会のうちに終わる



今日の午後、日仏会館で第1回サイファイ・フォーラムFPSS(フィプシー)の会合を開いた
この会は科学者の側から科学を哲学し、科学を文化にしようとするものである
今回はこのフォーラムをどのように進めていくのかについて議論することが目的であった
実際には科学者の他に哲学者やサイエンスコミュニケーションの専門家などが参加された
東京、関東だけではなく、北海道、東北、関西からの参加があり、感謝の念に堪えない

会は自己紹介の後、呼び掛け人がこの会の趣旨について説明、それから自由討議に入った
趣旨はこちらにその大枠が掲げられているので参照願いたい
議論の詳細は近いうちに専用サイトに掲載予定だが、次の大きなテーマが確認された

まず、自然を探究する場合、科学に依存するアプローチが独占しているように見える
この点について、哲学・美学的アプローチも正当なものとして認めることを確認した
前者を「プロメテウス的態度」、後者を「オルフェウス的態度」と言う人もいる
これらの一方だけに依存するのではなく、二つの態度を同程度に尊重するということである

その上で、科学の存在意義、本質をどのように捉えるのか?
そこから、科学の進むべき道をどのように考えるのか?
それが現在行われている科学の姿とどれだけ乖離しているのか?
そして、これらの問いを基に新たな哲学を生み出すことはできないか?
その可能性を探索することである

この世界に存在する「もの・こと」は人間の幸福に資さなければならず、科学も例外ではない
人間が生きる意味の中に、幸福の追求が挙げられる
したがって、科学が目指すべき道として、人間の幸福に寄与することが挙げられる
しかし、その対象は人間を超えたすべての生物にまで広げる必要があるとの指摘があった
さらに言えば、すべての生物を取り巻く環境も含めた安寧・調和を忘れてはならないだろう
最終的な枠組みとして、このような見方を持っておくことの重要性が確認された

具体的には、当分の間、賛同者の方が各人の活動の中で感じていることを発表することにした
上のポイントを意識しながら、それぞれの発表について議論することになるだろう
また、欠席された方から有用なサジェスチョンをいただいた
それは、リアルな会に参加できない方々のためにバーチャルな場を作ってはどうかというものだ
例えば、Facebookなどに議論できる場を設け、常時意見交換ができるようにすること
これがリアルな会と相補的に機能するようになると、活動がより効果的になると想定される

次回は10月の土曜日(14日、21日、28日のどれか)の開催を予定している
詳細が決まるまでには時間がかかりそうだが、はっきりし次第公表したい

今後の活動にご理解、ご協力いただければ幸いである


会のまとめ




dimanche 11 juin 2017

一夜明け、一つの重要なことに気付いた

昨日の会で、同じ研究所にいても言葉を交わしたことがなかった、との言葉をいただいた
その状態がよい訳ではないが、研究をしていると、このようなことは稀ではない
専門家とは専門の中に閉じ籠り、その外での議論にあまり意味を見出さないことが多いからだ
しかし、10年以上の時を経て、言葉を交わすことになる
それは、専門を超えた知である哲学を介してであったのだ
つまり、哲学には人間を結びつける重要な機能があることが見えてくる
これが有用な機能でなくで何であろうか

ただ、それを可能にするためには、哲学あるいは哲学者が変容する必要があることも見えてくる
現在の大学における哲学は、ある分野の専門家になることを人に強要している
しかし、それは科学者のような一般の専門家を作ることと何ら変わりがないのではないか
そうではなく、哲学者はその状態から抜け出さなければならないだろう
哲学が本来持っている専門を超えた側面を身に付け、それを生きる必要があるのではないか
これは専門性を排除するものでないことは言うまでもない 
それが成されなければ、上で挙げた重要な機能も果たせないことになるだろう
「人を結び付ける存在としての哲学者」の待望である

科学の問題が明らかになると同時に、哲学の課題も見えたように感じた朝である






2017年6月9日金曜日

第5回カフェフィロPAWL、無事終わる



今夜は第5回になるカフェフィロPAWLを開催した
今回の準備も最後まで形が決まらない苦しいものになった
参加された方は2回以上の方が殆どで、哲学との関係を模索されている方が新たに加わった
「哲学 X フランス」の検索から辿り着いたとのこと
模索の先に光が見えることを願いたい

今日はこれまでになく、どこかゆったりとした空気の中、自在に話題は広がったのではないだろうか
お陰様で、準備の苦しさが次第に和らいでいくように感じられた
ただ、参加された方の受け止めは分からない

今回のテーマも個人的な興味から選んだ「ソクラテスの死」とした
半世紀以上前に読んだ本を取り出し、記憶にある像とのギャップを味わうといういつもの試みだ
そこに大きなズレを感じれば感じるほど、頭の中を吹き抜ける涼風の心地よさが増す
西欧文化の根にあると言っても過言ではない紀元前399年に至る出来事を自分なりに振り返った

その過程でソクラテスあるいはプラトンが実践した哲学という営みの原型が現れてくるようであった
それは現代では忘れ去られているように見えるものだが、わたしには非常に身近に感じられた
ソクラテスが街に出て問いかけたテーマは、すべて本質的な問題であった
そういうことができたのは、魂の空間が広く深かったからではないだろうか
日常に溺れていると魂の空間を開拓できず、細かな問題にしか目が行かないからだ

さらに、死をどのように捉えるのかという永遠のテーマに一つの解が出されているようでもあった
永遠の魂と滅び去る肉体との二元論を説くプラトン描く哲学者ソクラテスの生と死
ソクラテスにとって、肉体は真理に導く魂の活動を妨げるもの以外の何物でもなかった
哲学者の仕事は魂から肉体を排除することだ、とまで言っている
換言すれば、哲学者の最後は死者同然になることなのである
その状態は、永遠の魂と共に真理の世界を彷徨う喜びを感じることになる
そういう人間がそもそも死を恐れるだろうか

唯物論者にかかれば、あり得ない世界になるだろう
ここ10年ほどの生活を振り返れば、体を削ぎ落すようなものになっていたことが見えてくる
そこから見ると、哲学の祖と言われる人物の見方には違和感を覚えなくなっている
その意味で、『パイドン』は実に興味深い読みとなった

参加された皆様に改めて感謝したい


会のまとめ





2017年6月7日水曜日

体の手入れと魂の手入れ、そして恐るべき記憶の力



今回の滞在中、テレビを観ることが多かった
フランスではゼロなので、無限に多いのだが、、
そこで気付いたのは、特にBSでは体の健康に関するものがかなりの割合を占めていることだった
異常な割合になるのではないか
その一方で、魂の健康に関するものはほぼ皆無
そこに意識が行っていないということなのか
単にそれは商売にならないということなのか

魂の手入れに目が行っていないためか、普通の番組からも頼りないものしか伝わってこない
大切な問題を真剣に扱うところが見られないのだ
それが日常から排除されている印象が強い
そんなに浮かれていてよいのか、という感想が湧いてくる
あるいは、テレビとはそういうものなのか

中に音楽のCDの宣伝があった
それを聴いていると、殆ど全てを覚えていることに驚く
この他にもいろいろなジャンルの音楽が記憶に蓄えられているはずである
その総量を考えると、改めて人間の記憶の凄さを感じないわけにはいかない

そこにあるのだが、普段はそのことに気付かない
そういう記憶を折に触れて引き出すことが、魂の手入れにとって良いのかもしれない
「過去を現在に引き戻す」のである





2017年6月5日月曜日

一日を二度生きる



意識だけではなく、体の反応としても3週目でやっと元に戻りつつあるようだ
それにしても長くかかったものである
この間、一日の中に散らばる睡眠を取っていた
目覚めた時が朝で、頭の中はすっきりし、それまでのどんよりとした意識とは変わっている
やる気も出てくる

これは一つの発見かも知れない
眠気を催したり、やる気がなくなった時には、一寝入りすればよいのである
そうすると新たな一日が始まる
新鮮な気持ちで歩み出すことができる
若き日のアリストテレスのように眠気を押してまでやるのは、駄馬にとっては非生産的だろう 

いずれにせよ、こうすると無理をしないで一日を二度とは言わず、三度でも生きることができる
本当にそうなのか、フランスに戻ってから試してみたいものである





2017年6月4日日曜日

一つの偶然は必然で、それは奇跡である



昨日、今回最初のカフェがあった
いろいろな方が、いろいろの場所から参加された
それは全くの偶然で、ある時間と空間を共有する
その人たちでなければ創り出せなかった時間と空間が、そこに現われる
いつものように、振り返ってみるとそれは必然としか思えない
それしかあり得なかったと見えるからだ

ある出来事に出会った時、それを振り返ることが大切だ
その出来事の本当の意味は一瞬では理解できないからだ
何度も振り返ることにより、新たな意味が現れるからだ
その意味を手繰っていくと、このような出来事に出会うことが一つの奇跡に見えてくる

さらに、考えてみたい
われわれが生きているということは、日々が新しい出来事との出会いである
それを振り返ることにより、その出来事に意味が与えられ、奇跡になるのだ
こうして生きていることこそが奇跡であることが見えてくる





2017年6月3日土曜日

第3回サイファイ・カフェSHE札幌、無事に終わる



今日は小雨降る中、またお忙しいところ、会場の札幌カフェにお集まりいただいた
中には関東から参加された方もおられ、感謝したい
また、カフェの社長さんも参加され、積極的に議論をリードしていただいたのは有難かった
ビル内に掲示されていたポスターを見て参加されたとのことで恐縮している
この時間が皆様にとって無駄ではなかったことを願うばかりである

今回は、治癒するとは何を言うのかがテーマであった
その前段として、病気、病理、正常、異常、健康などについて、歴史的に振り返った
医療現場の経験が豊富な方もおられ、かなり具体的な問題も提起されていた
現場の話と理論的な話がうまく絡んでくると、さらによく見えてくることがあるのではないだろうか
単に医学の領域だけではなく、日本社会のいろいろな領域の問題も俎上に上がっていた
個別の問題を全体に繋げることが哲学だとすれば、意義深い議論になったと言えるだろう

次回は10月6日(金)18h30~、同じ場所での開催を予定している
テーマは未定だが、今日のような議論が展開することを期待したい
最後に、改めて参加された皆様にお礼を申し上げたい


会のまとめ





2017年5月31日水曜日

1年ぶりの学友との語らい




今夜は学生時代の仲間に顔合わせの機会をセットしていただいた
有難い
殆どの方とは1年ぶりだが、皆さんお元気そうでほっとする
ただ、よくよく聞いてみると、いろいろな変化が身の回りに起こっている
また、伝え聞く話の中には大きな変化を経験している方もいるようで、複雑な気持ちになる

そんなことを別にすると、いろいろな人物をネタにしながら語り合うのは面白い
それぞれの人物評が興味深い
テレビで顔を見る寺島実郎氏を小学校から知っているという人が話をしていた
時間軸で人物を見ると、人間の本質のようなものが見えてくるようでもある

自分では全く意識していないが、数字を示されると新たなステージに入ろうとしていることに気付く
しかし、「人生は数字ではない」 が学生時代からのモットーであった
少し引いて見ると、これまで通りの認識でよいのではないか
何のことはない、そんなところに落ち着いた

いずれにせよ、次の帰国の折にも是非お会いしたいものである





2017年5月29日月曜日

子供たちに伝えられていた哲学精神



先日エンジンをかけたはずだが、この間アイドリング状態から抜け出せなかった
二週間の間、フランス時間のままであったことになる
時間的な余裕があることにして、休養を欲していたのかもしれない
向こうでは見られないテレビを観て、食べて寝るだけなので体重も増加気味
今週から動き出したいものである

昨日のこと
イタリアの美術教育家を招いて子供たちに美術を教える番組が流れていた
先生は美術の技術を超えるものを伝えようとしていた
1週間の間に子供たちがどのように変化していくのかを見るのは興味深かった
大人もそうだが、子供も見知らぬ人との交流、自己表現が苦手であることが分かる
しかし、一旦溶け込んでしまうと身内に対する表現に変わるのだが、、

その中で先生が重要なことを言っていた
自分の外と内を観察して、そのことについて考える時間を持つようにすること
これまでに蓄えたことを思い出し、繋ぎ合わせ、想像力を働かせること
自分を観察することをしない人間は、批判に向き合うことのできない弱い人間になる
それから、自分の作品を言葉で説明できるようにすること
これらを実行できれば、個人だけではなく、社会も国も大きく変わる可能性がある
その前に、このことを意識できなければ何事も始まらない
しかし、その認識も実行も至難の業であることを経験してきた
これらはわたしが考えている哲学の基本になることと通じているのに驚く
そこにヨーロッパ精神のようなものを見るのはわたしだけだろうか? 
子供の時からこのような態度で歩んでいると、どんな大人が出来上がるのだろうか?


それから、先日も触れたが、テレビではヨーロッパの紹介映像が目に付く
フランスの世界遺産、ドイツロマンチック街道、ルクセンブルク、パリのシネマなどなど
いずれも記憶を刺激するものであった
そして、いつも感じていることだが、日本から観るヨーロッパは何と美しいことか






2017年5月24日水曜日

取り敢えず、エンジンをかける



概日リズムが狂ったままで、まだ完全には戻っていない
時差ボケか、単なるボケなのかは分からないのだが、、、
その昔は数日で回復したのだが、今回は1週間を超えている
これも経年変化か?

日本に戻ると、日常的なことが頭に上り、深く沈みこむことが難しい
向こうにいると、どっぶりといろいろな問題に入り込むことができる
頭の中がすっきりする、あるいは透明になるという感覚だろうか
なぜなのか分からないが、そういう特徴を利用して生活していることになる
日本では、今回も少しだけ活動的に動き回りたいものである

とにかく、今日から普通のペースに戻すことにした
院生の時には帰国しても図書館に落ち着くなど、努めてもできなかったが、今は違うようだ
精神状態が大きく変わっている
初日はエンジンをかけるところで終わったようだ






2017年5月22日月曜日

「文体は思想である」 ということの意味



「文体は思想である」 という表現を聞いたことがある
このテーゼはいろいろな人がいろいろな言い方で語ってきたものと思われる
古くはセネカが 「文体は思想の衣である」 と言っている
"Le style est le vêtement de la pensée." (Sénèque)
新しい考えなどこの世に殆どないという一例だろう

実は、この言葉を聞いた時、それがどういうことを意味しているのか、よく分からなかった
しかし、今回日本での時差ぼけの中で分かったような気がした
おそらく、一つの意味が

それは翻訳のことを考えている時に起こった
ここに外国語の文章がある
それを日本語に置き換えるのが翻訳だが、経験から訳文は殆ど無限に可能であることが分かった
まず、一つの単語にどのような訳語を選ぶのか、である
それは訳者の日本語世界と文章の捉え方などに依存してくる
それだけでもかなりのオプションがあり、それを各文章で考えなければならないのである
途方もないバリエーションが可能であることが分かる

もう一つの要素に文体がある
それを考えた時、次のようなことが頭を巡ったのである
一人のフランス人がフランス語という言語世界の中で自らの思想を展開している
その表現はフランス語世界の中での一つの階層のようなものに属しているはずである
表現に至るまでに著者の頭の中で起こっている思考の襞の複雑さのようなものの表れになる
単語をどのような入れ物に入れるのかが文体で、それを選んでいるのは著者である
もしそうだとすると、文体は必然的にそれを選んだ人の思想を表すことになるだろう
それが意識されているか否かにかかわらず
これは宣長の意と姿の対比にも通じる
意の思想もさることながら、姿にも思想が表れることを意味している
そこに芸術家の真骨頂が発揮されることになる

翻訳の難しさを感じたのも、まさにこの点であった
ある階層にあるフランス語を同じレベルにある日本語に置換しなければならないのである
それは可能な作業だろうか
事実だけを伝える文章の場合には 「意」 だけが問題になるので比較的容易だろう
しかし、文学作品などは至難の業に見える


それまで分からなかったこと、気付かなかったことが見えてくる一瞬がある
それはまさしくわたしにとっての発見なのだが、昨年春の帰国時にも同じようなことが起こった
それまで薄々感じてはいたのだが、明確に意識されていなかったことに言葉が与えられたのである
そして、そこから一つの世界が広がった
これからも注意深く観察していきたいものである




2017年5月21日日曜日

サイファイ研究所ISHEから催し物のご案内



サイファイ研ISHEの今年前期の活動をお知らせいたします
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


第3回サイファイ・カフェSHE札幌
  <科学を哲学や歴史の視点から考え直す>

  2017年6月3日(土) 16:00-18:00
  札幌カフェ(5階会議室)
  
  テーマ: 病気が治るとはどういうことか
  ポスター 

第5回カフェフィロPAWL
  <「生き方としての哲学」の流れにある哲学者の考えを振り返る>

  2017年6月9日(金) 18:30-20:30
  ルノアール・飯田橋西口店(2号室)
  
  テーマ: ソクラテスの死が意味するもの
  ポスター

第1回サイファイ・フォーラムFPSS
  <科学者を中心に科学の外から科学を考え、科学を文化にする>

  2017年6月10日(土) 13:45-16:15  
  日仏会館(509号室)
  
  テーマ: フォーラムの方向性について
  ポスター 

第11回サイファイ・カフェSHE
  <科学を哲学や歴史の視点から考え直す>

  2017年6月16日(金) 18:30-20:30
    ルノアール・飯田橋西口店(2号室)
    
  テーマ: エルンスト・ヘッケルの科学と人生
  ポスター

  なお、2017年6月17日(土)の会は都合により中止といたしました。
  ご了承の程、よろしくお願いいたします。

第1回ベルクソン・カフェ(2回シリーズ)
  <フランス語のテクストを読み、哲学する>

  (1)2017年6月24日(土) 16:00-18:00
    恵比寿カルフール(A会議室)

  (2)2017年7月1日(土) 17:00-19:00
    恵比寿カルフール(B会議室)

    (開始時間と会議室が異なっています)
     1回だけの参加でも問題ありません
  
  テクスト: Pierre Hadot, « La philosophie comme manière de vivre »
        (「生き方としての哲学」) 
        Exercices spirituels et philosophie antique (Albin Michel, 2002)  p. 289-304
   
   参加予定者にはあらかじめテクストをお送りします

  ポスター



サイファイ研究所の活動にご理解のほど、よろしくお願いいたします






2017年5月20日土曜日

再びの嬉しい繋がり



まだ時差ぼけのようである
昨日の偶然は、藤田哲也(1920-1998)という気象学者についてのドキュメンタリーであった
若い時にアメリカに渡り、後にアメリカ人になった方である
その後半を観ることができた
ウィキによれば、去年の再放送のようだ
そこで印象に残った言葉は次のもの

「言いたいことを言え。半分間違っていても半分正しければその人生には価値があったことになる」

当初は全く受け入れられなかったが、後に実証されることになる新説を出した経験を持っている
飛行機事故の原因となるマイクロバーストの発見である
そのアイディアは、若い時に長崎で行った原爆被害の調査であったという
この点を強調したこともアメリカ人研究者に抵抗感を持たれた原因になっていたのではないか
今ではその対策として飛行場にアンテナが設置され、この種の事故は殆どなくなったという
英語での講演が流れていたが、議論好き、論争好きという印象を持った

博士は退職後、糖尿病で入院を余儀なくされる
友人の話によると、生きる意欲を失っていたので目的を持たせようとしたという
目的として勧めたのが病状の記録で、それに対して純科学的な記録を残している
おそらく、博士の目的は科学の中に限定されていたのではないかと想像させる
それ故、立派な業績を上げることができたとも言えるのかもしれないが、、

このエピソードには最近のエッセイで触れたこととも関係する重要なことが隠されている
それはどこか他のところにある目的に向かうこととそのものだけのために進むこととの違いである
そのものだけのために進むという中の最強のものは、生きることが目的になることだろう
それができれば、科学を失っても意欲を失うことはなかったのではないだろうか

もう一つ改めて見えてきたことは、アメリカの科学者の一般的な考え方の特徴である
それはあくまでも科学の中での思考を重視することである
それ以外を認めない "no nonsense"の世界なのである
今のわたしには非常に窮屈に感じるところでもある


これは今朝の番組だっただろうか
映画の鈴木清順(1923-2017)監督の言葉が印象に残った

「一期は夢よ、ただ狂え」

これも最近のエッセイ、さらには前回の記事と「狂」繋がりである
時差ぼけも悪くない
興味深い出来事が続いてくれた





2017年5月18日木曜日

日本から見えるヨーロッパ精神




久し振りにテレビのある生活に戻ってきた
観るものを選ばなければ、頭の中は大変なことになるだろう、といつもの感想が浮かんでくる
それは、本来われわれが持っている空間を十分に使うことができなくなるという危惧である
厄介なことは、普通の生活の中ではこのことに気付くのが至難の業であるということだ

さて、昨夜、時差ぼけの睡眠から目覚めた時、あるドキュメンタリーが始まったところだった
わたしのテーマになって久しい「偶然は必然である」が浮かび、観ることにした
それは、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のモデルについてのお話であった
この絵はダ・ヴィンチが最後まで手放すことがなかった3点のうちの1点である
アルプスを越え、終の棲家となったアンボワーズまで持って行ったものである

番組には絵画の科学的分析をするフランス人研究者、イタリアの服飾研究家と歴史家が出ていた
まず、彼らの対象に向かう態度に形容し難い余裕のようなものがあることに改めて気付く
それは歴史が齎すものなのだろうか
それ以上に、歴史について振り返るという性質が齎すものなのかもしれない
省察であり、哲学的態度であり、言葉の重視である
それは日頃から感じていることだが、そこにヨーロッパらしさのようなものを見るようになっている
そして、それを好ましいものと考えるようになっている

ドキュメンタリーには、これまで知らなかったことが出てきて、それ自体でも楽しめるものであった
しかし、それ以上に、事実や科学を超えるところにも目が行っている研究者の姿が見えてきた
特に、最後に出てきたイタリアの老歴史家の姿は心打つものがあった
もう少しで、北斎のように「狂」の字が入る境地に至るのではないか
そう思わせる愉快さを感じた


前回の帰国でもヨーロッパに関する番組が少なくないことに驚いた
おそらく、それだけ要求があるということなのだろう
歴史ある日本などは、ヨーロッパにより近いものを感じているということなのではないだろうか
それがマジョリティではなさそうではあるのだが、、、




2017年5月14日日曜日

外国語との付き合い、あるいはなぜ外国語を学ぶのか?




雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイを紹介いたします

第44回 外国語との付き合い、あるいはなぜ外国語を学ぶのか?

 医学のあゆみ (2016.5.14) 257 (7): 803-807, 2016

お暇の折にでもお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします






2017年5月12日金曜日

現象学事始め、あるいは二種類の反省



今日は夕方、急に雨が降り出し、雷が鳴り続いていた
昨日から空の様子がおかしいようである


フランスに渡る前、フランスの哲学教師をやっていた方から仏版ブログにコメントが届いた
そこには、ブログに溢れる活力は現象学的なものの反映であるとの診断が書かれてあった
さらに、私はフッサールやハイデッガーを愛するために生まれてきたとのお告げが添えられていた
このことは以前に触れたようにも思う
しかし、その意味は分からないままである

最近、移動の時にフッサールの『デカルト的省察』を読み始めている
やはり、日本語がピンと来ず、難しい
このような領域は、自分が同じような経験をしていなければ分からないことが多い
それ故、若い時から哲学をやる難しさを想像している
ただ、今日読んだところは言いたいところが分かったような気がした
一次意識と二次意識、あるいは意識の三層構造とも関係しそうに見えたからではないかと思う

それは反省というものにも二種類あるというところであった
一つは日常の出来事について反省するという意味での反省で、われわれが時々行うものである
「直進的」という言葉で表現されている

もう一つはそれとは別で、そこで起こったことや反省していることについて反省するものである
そういうものが存在するのかどうかということについての反省も含む
この場合、根源的な問いかけになるため、フッサールがエポケーと呼んだ過程が必要になる
「判断停止」と訳されていた

我流の解釈では、一度立ち止まって、存在するもの、経験したことを考え直すということだろうか
存在しているものは確かに存在しているのだが、それを現実ではなく現実の現象と捉えるのである
そこに一つのクッションができ、現実を少し離れたところから見る客観性が生まれるように見える
「もの・こと」により深く迫ることができそうである

日常における反省とエポケーを伴う現象学的な反省では記述のされ方も異なってくるだろう
そして、後者により最初の体験の意味が異なってくる可能性さえある
つまり、「関心を持つ」自我の上に現象学的自我が存在するという「自我の分裂構造」を採っている
前者が世界に関わりを持つ自我であるのに対して、後者は「無関心な傍観者」としての自我である

このテーゼがよく理解できるのは、その構造が自分の中にもあることが見えるからである
最初の仏版ブログにその傾向が現れていたということなのだろうか?
そのことには気付かなかったが、あったのかもしれない
自分が書くものの特徴については、なかなか分からないものである
これからも折に触れて、フッサールさんの考えを「反省」してみたい




2017年5月11日木曜日

突然の嵐



本日は曇り時々雨で少々冷えた
昨日発見したところで午前中過ごす
質素なところなので、意外に集中できる
久し振りに勉強しているような気になる

これも久しぶりに夕方から外出
午前中に浮かんだところを纏めるためにいつものカフェへ
あくまでも第一段階だが、 それなりにできたようだ
この地道な営みがこれから求められるのだろう

ところで、カフェに入った途端、もの凄い雨と風が吹き荒れた
窓の外は白くなり、景色は見えず
それほど長くはなかったが、マロニエの花は落ち、辺り一面が真っ白になっている
一瞬の変化の中にいるのもなかなか味があった

今日はそのカフェからのアップとなった








帰り、幾分水かさが増したように見えるロワール沿いを歩いてきた
緑滴る大木の下を水溜まりを避けながら
そんな中を歩いている人を何人か見かけた
素晴らしい気分であった
晴れた夕暮れにあの川沿いで過ごすのも悪くないだろう

そんな気分でバスを待っている時、完璧な虹が現れた
最初にこの町に来た時に見た途中が欠けているものとは違う 
夜の9時過ぎの虹、こういう時に限ってカメラを持参していなかった
何かのご褒美だったのだろうか






2017年5月10日水曜日

興味深いスピンオフ



今朝、最近発見した近くの郵便ポストに投函
そのポストと同様、以前からそこにあったレストランに気付く
これまでそこをカフェ代わりに使おうという考えさえ浮かんでこなかった
そこで暫く読んでみたが、使えそうである
こんな近くにこんなところがあるとは思いもよらなかった
こういう盲点を発見するのも楽しみになっている
実はそれが余りに多くなっているので、楽しみは尽きないのだが、、


ところで、今回のフランス大統領選の後、日本の政治状況が浮かんできた
日本は今沈滞の中にあるという
その沈滞と並走しているように見えるのは、皮肉と揶揄と諦念と時に罵倒の類になるのだろうか
今の問題と真正面から向き合い、新しいビジョンを提示するような人が見当たらない

一見、この沈滞を打ち破るために立ち上がっているように見えるものもあるが、訴えかけてこない
それはおそらく深い思索のなかなら生まれてきたものではないからではないか
出てくる言葉の背後に何かを感じないのである
そう感じたのは、マクロンが少なくとも言葉の上でその方向を向いているように見えたからだろう

この状況を打ち破るにはマクロン的な人物の登場が求められるのではないか
外から見れば1年ほど前には殆ど無名だったというくらいの若い人材、隠れている人材である
既存の野党が機能しない状態では、その枠を超えた思考をする人が必要になるのではないか
そのような人材が出るだけの余裕、スペースがいまの日本にあるのだろうか
悲観的状況をものともせず、既存の勢力を取り込み進むだけの力量を持つ人物は現れるのか
そんな夢想とでも言うべきものが浮かんできた

これは離れているからこそ浮かんできたものかもしれない
と同時に、今回、大統領選のカバーをしていなければ、こんな夢想も生まれなかっただろう
そう考えると、面白いスピンオフと言えるのかもしれない






2017年5月9日火曜日

哲学者ポール・リクールとエマニュエル・マクロン



フランス現代の哲学者にポール・リクール(Paul Ricoeur, 1913-2005)がいる
彼は自らの仕事を偉大なテクストを読み続けることと考えていた
巨人の肩の上の小人に例えながら
この哲学者とマクロンの意外な接点を知ることになった

マクロンはリクールの助手をしていたという
その時に前世紀について学び、歴史を考えることを学んだと選挙前に出した本で述べている
さらに、リクールについてESPRIT誌に論文も書いている
タイトルは、La lumière blanche du passé. Lecture de la Mémoire, l'histoire, l'oubli
リクールの『記憶、歴史、忘却』を読んでの考察になるのだろうか
この本にはマクロンへの謝辞も書かれているという

それ以来、リクールと関係のあった次のような人に深い影響を受け、変容して行ったと語っている
 
 オリヴィエ・モンジャン(Olivier Mongin, un écrivain, essayiste et éditeur français, 1951-)
   ESPRIT誌の編集長を1988年~2012年まで務めた
 フランソワ・ドス(François Dosse, un historien et épistémologue français, 1950-)
 カトリーヌ・ゴールデンシュタイン(Catherine Goldenstein
 テレーズ・デュフロー(Thérèse Duflot)


特に選挙戦後半だが、彼の主張には意外と背骨となっているものがあるような気がしていた
彼の中にある進歩への信仰や自由の尊重、フランスやヨーロッパへの強い思いの背後にあるもの
言わば、啓蒙思想そのものを推し進めようとする力になっているもの
それは文学や哲学の素養に裏打ちされているのではないか
さらに、痛みの癒しや和解という言葉の背後にはリクールの哲学が反映されていたのではないか

単なる政治・金融の技術だけではなく、そこから距離を取ることを可能にする文学や哲学からの目
彼はそれを持っていて、それが彼を動かす力になっていた可能性がある
これから調べなければならないが、興味深い視点を得ることができた












2017年5月8日月曜日

進歩という概念



啓蒙時代について少しだけメモしておきたい

18世紀に近代的な意味での進歩の概念が現れた
科学、芸術、哲学による知の発展が人間性の完成に導くという今に続く考え方の基本が生まれた
この時期に、古代人と近代人の論争があったことを知る
昔がよかったのか、今の方が優れているのかの論争で、新旧論争とも言われる

古代の作家を模倣することを勧めたニコラ・ボアロー(Nicolas Boileau-Despréaux, 1636-1711)
近代の優越性、創造的なイノベーションを主張したシャルル・ペロー(Charles Perrault, 1628-1703)
デカルト主義者のフォントネル(Bernard Fontenelle, 1657-1757)がペローを支持
進歩の概念が生まれ、それがフランス革命にまで至る


大統領選関連

昨日、予想通りマクロンが選ばれた
これからマクロンが国内に広がっている不満と分断を緩和できるのか否かが問題になるだろう
それ如何では、ル・ペンが主張している政策が魅力あるものに見える時が来るかもしれない
その点に注意しながらこれからの政治を見ていきたい
ここで、選挙後のそれぞれの会見と今日の式典の模様を貼り付けておきたい
















今回のカバーで少しだけ現世に近付いたように感じている
今日でこのシリーズを一応終えることにし、また何か出てきた時には改めて観察することにしたい





2017年5月7日日曜日

女性美術展を観る



昨日、ホテル・グアン(Hôtel Goüin)の前を通ると、女性をテーマにした美術史展が開かれていた
土曜のこともあってか、前回とは異なり、非常に賑わっていた
絵画や彫刻の名作を現代の女性が演じ、写真に収めたものが作品であった
すぐに森村泰昌氏の作品を思い出した
しかし、あそこまで原作に忠実にすることには執着しておらず、ずっと自由である
前回来た時には写真撮影は禁止されていたが、今回はOKであったのでいくつか紹介したい









久し振りの至福の時間となった






2017年5月6日土曜日

フランス語のクラス、終わる

   フランス語クラスの面々


昨日は久し振りにCUEFEEでの最後のフランス語クラスに顔を出した
実は教室が変わっていたようなのだが、そうとは知らずスペインからの女子学生と暫く待っていた
そこに先生(Pr Amaury Théret, 写真最後列)が現れ、新しい教室まで15分ほど歩く

最後のクールにはわたしを含めて9名が出席
普段の半分くらいだろうか
ドイツ(2名)、中国(2名)、メキシコ、スペイン、モンテネグロ、スコットランドからの学生さんであった
記憶が正しければではあるが、、
内容はSAMBAという映画の鑑賞であった
最後に記念撮影をお願いして快諾していただいた

12回、3か月に及ぶクールだった
余り進歩は期待できそうにないと判断、皆勤とはならなかった
ただ、籠る生活から出て、音としてのフランス語に反応する楽しい時間であった
殆どが20代前半の皆さんだが、しっかりしていて自らの学生時代を思うと感心せざるを得ない
皆さんのこれからの飛躍を期待したい










2017年5月4日木曜日

選挙前最後の討論会






次の日曜が投票日になった第2回投票
その前の最後の一対一の討論が昨夜あったので貼り付けておいた
ライブでは聴けなかったが、後から少しだけ見た

前回見た予想ではマクロンが6・4で優勢だったが、少し減少傾向が見られた
しかし、その後の経過は平行線で全く変わっていない
おそらくマクロンが勝つのではないかという中でのデバになった

現実の政治を知らない身なので、あくまでも討論での見え方からの結論になる
インテグリティから見て、マクロンが圧倒していたようだ
彼は終始ル・ペンを諫めるような態度を見せた
発言には嘘があり、憎しみや分断をフランスに持ちこんでいる
それは国民戦線がここ10年以上の間で取ってきた戦略である
国民戦線の描く家族や国の姿はフランスの本来の姿ではなく、わたしの描く姿でもない
フランスは啓蒙の国、開かれた国で、国境を閉じることとテロ防止とは関係がない
問題に向き合い、それに打ち勝っていくという前向きの考え方で進める
これまで分断されてきたフランスを和解に導きたい、と力強かった

ル・ペンの訴えはスローガンが先に来て、細かい政策、財源などをはっきり示せなかったようだ
その点ではややアジ演説に近く、現状への不満を煽る後ろ向きの印象を与えるものになった
テロ対策として、イスラム原理主義者を国外追放するとしていた
国内にいる外国人一般に対しては、フランス人と同様に扱うと当初から表明していた
ただ、これまでのFNの歴史を見ると、人種差別的な見方がいつ噴出しないとも限らない印象もある
それから、負けを覚悟していたのか、皮肉や揶揄が多いのも気になった

総合すると、討論でもマクロンの方が優勢という印象を持った
一夜明け、どちらが説得力があったかという国民の評価も63対34でマクロン
フィヨン支持者では58対38、メランション支持者でも66対30とマクロン優勢
どちらが誠実であったか?どちらが自分の価値観に近いか?という問いでもマクロンが6割を得た
ただ、討論後の統計によると、両者の差はやや縮まり、55%対42%とのこと

それから、討論中の両候補の発言の正誤を評価する記事もあった
post-truthの時代では不可欠になりそうな検証である
これを見ると、政治家は恰も本当のことのように嘘をつくことが分かる
これも若干マクロンの方がよいという印象だ

これはこちらでいつも感じていることだが、討論とは言葉による激しい格闘技だということだ
イメージ、スローガンではなく、理念、具体的な政策について言葉で表現して闘わなければならない
ル・ペンは資料に頼っているところがあったが、マクロンは何も見ないで議論していた


今回、10年目にして初めて政治の世界を覗くことになった
政治を含めて外の世界を観るということは時間を要することである
その分、内に向かう時間が奪われる
これまで現世の動きに無頓着であったのは正解だったような気もしてくる







2017年5月3日水曜日

ぼんやりすること、再び



先週末から毎日が土曜日という感覚の中にある
月曜が祝日だったためなのか、日本が大型連休の中にあるためなのかは分からない、
今は全く関係がないはずなのだが、週の中で一番ほっとする曜日が土曜になって久しい
仕事が終り、もう一日休みがあるというあの感覚である

偶然はいつも何かを齎してくれる
Youtubeを開いてみると、以前に世の中を騒がせた新垣隆という作曲家がリストに出ていた
難聴の作曲家のNHK特集を帰国していた日本で偶然に見たことがあった
事態が明らかになった後に開かれた記者会見で、氏が正直に語っている姿が印象に残っていた
そして、再びの偶然で氏がいろいろな活躍をしていることを知ることになった
ある番組の中で、作曲する時にはぼんやりすることが大切なんです、とぼそっと語っていた
騒々しい番組だったので、周りの人の耳には届かなかったようである
以前のわたしであれば聞き逃していた言葉になるだろう
しかし、その意味がよく分かるようになっている今、なるほどと思いながら聞いていた

人の話を聴いて面白いと感じるのは、このぼんやりした時間が持っていることを想像させる場合だ
学者の話が概して面白くないのは、事実に埋もれ、この時間を経験していないからではないか
つまり、意識の第三層にまで入り切れていないのである
芸術家の場合には、ぼんやりした状態が創造に繋がるのだろう
普通の人間にとっては、哲学に繋がるものである
ひょんなところから、ぼんやりすることの意味を確認することになった












2017年5月2日火曜日

瞑想の効果?



本日は朝から小雨
外気を入れながら代り映えしない景色を眺めている時、こんなことに気付いた

特にトゥールに来てから、受け入れる容量が増えているのではないか
例えば、以前では到底無理だったと思われる多数のプロジェを同時進行させること
殆ど気にならなくなっている
それから、日常におけるいろいろな出来事に対しても許容範囲が広くなっているように感じる
そのため、ストレスというものがなくなっている

極言すれば、全世界を受け入れるという気持ちが生まれている
そのために脳の空間を極限まで広げるという感覚があり、実際に広がっているように感じている
いや、より正確には、それは殆ど無意識のうちに行われているような気がする
勿論、すべてが錯覚ということもあり得るのだが、、
それが錯覚にしても、その錯覚は精神に非常に良い影響を与えているようである










Liberté

Paul Eluard
Sur mes cahiers d’écolier
Sur mon pupitre et les arbres
Sur le sable sur la neige
J’écris ton nom

Sur toutes les pages lues
Sur toutes les pages blanches
Pierre sang papier ou cendre
J’écris ton nom

Sur les images dorées
Sur les armes des guerriers
Sur la couronne des rois
J’écris ton nom

Sur la jungle et le désert
Sur les nids sur les genêts
Sur l’écho de mon enfance
J’écris ton nom

Sur les merveilles des nuits
Sur le pain blanc des journées
Sur les saisons fiancées
J’écris ton nom

Sur tous mes chiffons d’azur
Sur l’étang soleil moisi
Sur le lac lune vivante
J’écris ton nom

Sur les champs sur l’horizon
Sur les ailes des oiseaux
Et sur le moulin des ombres
J’écris ton nom

Sur chaque bouffée d’aurore
Sur la mer sur les bateaux
Sur la montagne démente
J’écris ton nom

Sur la mousse des nuages
Sur les sueurs de l’orage
Sur la pluie épaisse et fade
J’écris ton nom

Sur les formes scintillantes
Sur les cloches des couleurs
Sur la vérité physique
J’écris ton nom

Sur les sentiers éveillés
Sur les routes déployées
Sur les places qui débordent
J’écris ton nom

Sur la lampe qui s’allume
Sur la lampe qui s’éteint
Sur mes maisons réunies
J’écris ton nom

Sur le fruit coupé en deux
Du miroir et de ma chambre
Sur mon lit coquille vide
J’écris ton nom

Sur mon chien gourmand et tendre
Sur ses oreilles dressées
Sur sa patte maladroite
J’écris ton nom

Sur le tremplin de ma porte
Sur les objets familiers
Sur le flot du feu béni
J’écris ton nom

Sur toute chair accordée
Sur le front de mes amis
Sur chaque main qui se tend
J’écris ton nom

Sur la vitre des surprises
Sur les lèvres attentives
Bien au-dessus du silence
J’écris ton nom

Sur mes refuges détruits
Sur mes phares écroulés
Sur les murs de mon ennui
J’écris ton nom

Sur l’absence sans désir
Sur la solitude nue
Sur les marches de la mort
J’écris ton nom

Sur la santé revenue
Sur le risque disparu
Sur l’espoir sans souvenir
J’écris ton nom

Et par le pouvoir d’un mot
Je recommence ma vie
Je suis né pour te connaître
Pour te nommer

Liberté.


Paul Eluard
Poésie et vérité 1942 (recueil clandestin)
Au rendez-vous allemand (1945, Les Editions de Minuit)










2017年5月1日月曜日

メモの絶大な効用



本日はメーデーで、交通機関も含めてお休みのはず
籠ることにした

昨夜は久し振りに寝る前にいくつかアイディアが浮かんだ
それは、いま手の内にあるものの全体を思い浮かべた時のことであった
そのまま寝ようとしたが、メモしておいた
先日メモのことに触れたことが後押ししたのだろう
予想通り、朝起きると完全に忘れていたので正解であった

アイディアの一つは、何日か前に引っ越しの箱に入ったままの本を目にしたことから出ていた
それはフランスに渡る前に手に入れた上下二段で1000ページになろうかというものである
それまで、このような大部の本は買ったことがなかった
読む時間などないことを知っていたからだろう
当時は雑然とした内容に感心しなかったが、いずれ何かの役に立つだろうと思ったのだろう
あるいは、フランスに向かう記念にとでも思ったのかもしれない
しかし、この10年間、それに触れることはなかった

ところが、その本を取り出し、読み始めて驚いた
この10年ほどの間に蓄積され、関連付けされていた塊がある
現在の私の問題と言ってもよいものだ
驚いたのは、今の塊を超えて頭の中に散らばっていた他のものが一気に繋がってきたことである
このような感覚が襲ってきたのは久し振りである
いつも暫くするとその驚きは薄れていくのだが、今回はどうだろうか?











2017年4月30日日曜日

バンド演奏の中、ぼんやりと読む




本日は曇り、時々雨
その雨の中で試合が行われ、応援のバンドの威勢もよかった

ぼんやりといろいろなものを摘み読みする
読み始めた本の中にこういう指摘があった

われわれの理性の空間は、規範によって境されている
社会を安定させるための社会的な規範が一方にある
善い行いか悪い行いかを決めるものである
もう一方には、それを守らなければ生存に関わるという言わば機械的な規範もある
それに従わなければ、自然が罰を下すという類のものである
われわれが倫理と言う場合は前者を指し、そうすることをすべてに求める
後者は必ずしもすべてに求めるわけではないが、その結果責任はその人間が負うことになる

ヤスパースの哲学についての考え方にも近いものを見た
「書物の中に述べられ、そして教室の講義で説明されるような哲学思想は、いわば一方の側面であって、この側面は、歴史的に個別的で代替不可能な実存の内でしか実現されないような他の側面が共に語りかけるときにだけ、初めて価値あるものになります」
「私には、一九世紀の意味での、そればかりでなく私たちの時代の意味での、科学的哲学は、事実上終焉しているように見えます。それは今でもアカデミックな意味では、行われておりますが・・・」
「私の考えでは、人間が実存する限り、哲学は決して終焉することはありません。哲学の一定の形態・・・が一つのサークル、一つの教養界、一つの社会に対して、その時々に終焉する、ということはありえます。・・・学派における根源的な哲学する働きが一つの学説体系に転化し、おのおのの学派にとって自家撞着的なことが始まったとき哲学は終焉しました」
「私には、こうした新しい哲学を求める声は疑わしいものに聞こえます。・・・ひとは哲学を要望することができません。彼はそれを生きなければならないのです。哲学は決して未来のものではなく常に現在的です。哲学を待望するものは、すでに哲学を拒否しているのです」
「哲学は各々の単独者の実存的意識を明確にし、彼がそのために生死を賭けようとするものを明瞭にし、なしうることをなそうとする意志を強め、起こるかもしれない一切のものに対して覚悟を決めさせるのです」


大統領選関連

2日前の調査結果は以下のようになっている

マクロン: 59%
ル・ペン: 41%

マクロンは週の初めに比べると4%下げている
まだ決めていない人を入れると、次のような数字になる

マクロン: 47%
ル・ペン: 33%
未決定: 20%

沈黙を守っていたメランションが、Youtubeで声をあげた
自分は投票には行くが、誰に入れるかは言わない
そして、自分はグルではないので誰に入れろとも言わないとしている
そのメランション支持者の動向は以下のようになっている

40%がマクロン(13%減)
19%がル・ペン(8%増)
棄権40%(7%増)

アモン支持者は、マクロン63%、ル・ペン8%、棄権29%
フィヨン支持者は、マクロン50%、ル・ペン21%、棄権29%

時間軸で見ると、徐々にマクロン支持が下がっているようだ
あと1週間で両者の線が交わることはあるのだろうか