lundi 30 mai 2016

翻訳の生活



このところ、比較的規則正しい生活をしていた
今年に入ってからプロジェの一つにした翻訳の仕事である
当初はなかなか進まず苦労したが、少しずつ著者の文体や言葉の選択に慣れてきたようである
始める前に想像していたペースに近付きつつある

翻訳とは結局のところ日本語の問題であるということに改めて気付かずにはいられない
そして、この作業には膨大なエネルギーを要するということも
どうも今年の前半はこれに取り掛かりっきりにならなければ終わらない様相になってきた
丁度この時期、空き時間のような形になっていたので好都合であった





jeudi 19 mai 2016

SHEとPAWL、それは一夜限りの知的共同体であり、句会だった



今回の滞在は比較的長い
テレビを観る時間も増えている
殆どの番組は時間潰しのためのもの
切り取られた知識が垂れ流されている
それに止まらず、感情のレベル、刺激と反応の世界で騒いでいるだけのものが多い
これだけを観ていると大変なことになりそうだと思うが、日常生活の中にいると気付かないだろう

それから健康に関するものが異常なくらい多いという印象を持った
宣伝は殆どそれだが、普通の番組にも目立つ
病気の神経症と言ってもよいかもしれない
わたしと同年代の人が集まると、この話題が出ないことはない
他に話題はないのだろうか

そんな中、ここ三日間は朝のBSで芭蕉や俳句についての再放送をやっていた
初日に何気なくチャンネルをひねると芭蕉の革新性などが扱われた番組が流れていた
お蔭で、朝の出足が遅れるということになったが、そのどこが悪いのだろうか

昨日はイギリスの女性が十数年前に辿った奥の細道を歩き直すという1997年の番組があった
Lesley Downer というジャーナリストとなっていたが、いまは小説家として活躍しているようだ
芭蕉を心が旅人の人間と見ていた
その中に、東北の田舎でも芭蕉の時代から句会のようなものが開かれている様子が出ていた
それを観ながら、句会というものは「一夜限りの知的共同体」とでも言える営みであると思った
参加者はお互いにフラットな関係の中にいて、詠まれた対象やそれぞれの句を評するのである
それぞれの経験の違いは問題にならない
それぞれが自由にものを言い合い、その後に宴席が続くのである
句会の特徴をこう見た時、わたしが主宰しているSHEやPAWLにも繋がると思えてきた
つまり、SHEやPAWLは「一夜限りの知的共同体であり、句会」だったのである

今朝はパリの女子高校生を相手にパリで句会をやるという番組だった
これは以前に観たことがあった
パリの女子高生の大人びた態度と柔らかな感受性に改めて感心する
俳句などはフランス人の感受性にも合っている、理解されるのではないかと思いながら観ていた
それにしても日本のテレビで観るフランスはどうしてこうも美しく見えるのだろうか
と同時に、フランスやヨーロッパに関する番組が少なくないことにも今回驚いている





jeudi 12 mai 2016

そこで生きていたのか!



庭の芝生が一雨ごとに緑を増している
タンポポが朝は閉じていることを発見して感動する
その程度にしか自然を観ていなかったのだろう

庭にいろいろな鳥が寄って来る
名前は分からない
芝生を嘴でつついている
何かを食べているのだろうか

先日、生ものの残りを投げてみた
暫くしてみると、きれいになくなっていた
そして今日、固くなったお菓子を投げておいた
暫くしてみると、まだ残っている
固すぎたのかと思い、砕くために降りてみた
取り上げてみると、無数の蟻さんたちが群がっている
こんなにたくさん生きていたのか、と感動する
彼らの好物だったようだ

それから砕いたものを置いておいた
夕方帰ってみると、跡形もなくなくなっていた
目には見えていないが、生きものたちは間違いなく活動していることを確認した
それを観ている方は生きているのだろうか
その確認は取れていない


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vendredi 13 mai 2016

今朝、どのようにお菓子がなくなるのか観察した
すると、大きな塊はカラスにそのまま持って行かれることが判明
なぜか、がっかりする
小鳥たちに食べてもらいたかったという思いがあったのだろう
何でお前さんが、という気分である





mercredi 11 mai 2016

われわれは一人なのか?



今日のBSニュースで地球外生命体の可能性を示唆する結果が発表されたことを知る

宇宙探査機ケプラーの望遠鏡は、これまでに1284の惑星を発見したという
これはこれまでに知られていた惑星の2倍に当たる
さらに興味深いことは、その中の9個はhabitable zoneにあるという
太陽のような中心となる星から生命体の存在に適した距離にある星が9個あったということである
地球外生命体の存在の可能性が増したことを意味している
2018年からはジェイムズ・ウェッブ望遠鏡で更なる探査が続けられるという

一昔前には、この宇宙に他の生命体がいる確率はほぼゼロであるという言説が流れていた
それ故、地球は尊い星であるという議論に向かっていたようだ
同様のことは生物という存在についても起こっている
人間を最上の地位に置き、それぞれの生物に階層を認めるという見方があったし、今もある
しかし、生物相互の間に見られる違いは、見かけほどではないことが明らかになりつつある
境界がぼやけているのである

漆黒の闇が巨大な空虚ではなく、そこに生命体がいるかもしれないというこのニュース
その生命体がどのような形を取っているのかはわからない
しかし、その可能性が見えただけで、パスカルが感じた慄きは和らいでくるように感じられる





dimanche 1 mai 2016

カート・ヴォネガットさんから岩崎航さんに、そしてキェルケゴールへ



昨日、ヴォネガットさんの以下の言葉をツイートした。
「作家が相手にしているのは、全世界の人びとでもなく、十人でも、二人でもない。作家が頭においているのは、ただ一人の読者なの」(カート・ヴォネガット)

昨夜、テレビを観た後、以下のようにツイートした。
夜、岩崎航という筋ジストロフィーを患っている詩人のドキュメンタリーを観る。その中に、結局のところ自分に向かって書いているというニュアンスの言葉があった。ヴォネガットさんが「一人の読者に向かって書く」という時の読者とは、自分自身ではないのか。そんな考えが浮かんだ。

岩崎さんの話を聞きながら、朝読んだ言葉の意味が分かったような気がしたからである。ヴォネガットさんの真意は分からないのだが、、、。このような繋がりで分かったように感じることが多くなっている。それは自分の発見になるので、いつも嬉しいものである。

そして今日、岩崎さんご本人から、このツイートに「いいね」が入っていて驚いた。


昨日の番組を観ながら、岩崎さんの生活は謂わば精神だけの生活といっても良いのではないかと感じていた。これは比較にはならないが、わたしの8年余りのパリ生活は日本にいた時と比較すれば日常生活と職業生活のない世界で、日本から見ると精神の世界にいたように感じるようになっている。その世界に入らなければ見えてこないものがあることも分かってきた。

今読んでいるキェルケゴールは「直接性」と「間接性」という概念で、この辺りの事情を語っている。直接性というのは、日常生活と職業生活の一部で経験するところのもので、現世の価値を絶対的なものとして生きることを指し、間接性とは普遍的、絶対的な価値を規範に「もの・こと」を観、考える生活で、現世における価値を享受するにしてもそれを相対化できる視点で生きることを意味している。直接性の中には振り返るという運動はなく、謂わば刺激と反応の中に生きることである。それに対して間接性においては、常に反省という運動が組み込まれている。これは一概には言えないかもしれないが、多くの人は直接性の中に生きているのではないかと想像される。

岩崎さんの生活をキェルケゴール流に言うとすれば、ほとんどが間接性の中にあると言えるのではないだろうか。 この間接性こそ、キェルケゴールによれば、信仰に繋がるもののようである。