mercredi 24 février 2016

フランスから離れると



日本に帰ってから2週以上が過ぎた
今回はこれまでより長い滞在になることもあるのか、日本にいた時の感覚が戻りつつある
フランスを遠くに感じながら生活しているのだ

現場にいると、フランス文化やフランス語に対して鈍感になる
日常に溢れているからだろう

こちらにいると、日常から消えているものに対する感情が高まるように見える
この感覚も捨て難いものがある

フランス語を勉強しましょうか、などという気持ちが湧いてくる
向こうではすっかり忘れていた感覚だ

二つの場に身を置くことにより、それぞれでマンネリになりやすいところが矯正されるのではないか
そんな期待感が生まれている





mardi 23 février 2016

日仏におけるベース



今年は大学院を卒業して、これまでの縛りから解き放たれた時間を手に入れることになる
その時間をどのような枠組みの中で過ごすのかについて、年が明けてから考えていた
それが自分でも予想もしなかったようなものになるとすれば、素晴らしいと思っていた

2013年に始めたサイファイ研究所は、これからも活動のベースになるだろう
今年から具体的なプロジェクトも始めることにした
それとは別に、これまでやってきた研究をフランスで継続したいという思いは消えていなかった
日本とフランスの両方に身を置きながら考えていきたいという希望である

そして、つい最近、フランスにおけるベースが与えられるという正式な連絡が届いた
今年の9月からフランソワ・ラブレー大学の連携研究員として研究に参加できることになったのだ
これまでのような庵に籠った学生としてではなく、社会に出た研究者としての生活になるはずである
そこでは、これまでとは違う新しい景色が広がるのではないかと期待される
フランスにおいてもこのような自由な立場で研究を継続できることは望外の悦びである

これで当分の間の大きな枠組みが固まってきたことになる
期せずして、このブログの趣旨とも合致する流れになってきた
振り返れば、そこに至るにはいくつもの不思議な出会いが絡んでいたことが見えてくる
勿論、当時はそれがこのような結果に繋がってくるとは思ってもいなかったのだが、、
今回の原因と結果について分析を始めると長くなりそうなので、いずれ、ということにしておきたい






dimanche 21 février 2016

ウンベルト・エーコさん亡くなる

  Umberto Eco (1932-2016)   
  Photo : Serge Picard (partie)


イタリアの記号学者ウンベルト・エーコさんがこの19日に亡くなったことを知る
享年84
これまでに何度かブログで取り上げた方になる

個人的にも記号論、意味論の世界には興味を惹かれるものがあった
事実、2011年にはロックフェラー大学で開かれた生物記号論の会議にも参加している
それ以来ご無沙汰しているが、自分の中での位置付けが未だ確たるものにはなっていないからだ

追悼の意味を込めて、これまでに書いたブログ記事を3つほど再掲したい


薔薇の名前 (31 mai 2005

先日読んだジャック・ル・ゴフさんのインタビューの中で、中世の時代で目を見張るものとして、大聖堂、城壁、僧院(の回廊)の3つをあげていた (27 mai 2005)。図書館 (la bibliothèque) は入らないのですか、との問いに次のように答えていた。そう聞くのはウンベルト・エーコの 「薔薇の名前«Le nom de la rose» のことを考えているからでしょう。エーコは優れた中世研究家 (médiéviste) だが、彼の中世はその模倣でもないし、夢の世界でもない (ni imité ni fantasmagorique) と。エーコの中世は少し違うというニュアンスだろうか。

フランス語訳でも読んでみようかと一瞬思ったが、長そうなのでまず映画の方を見てみた。実はこの映画が出た時のことは覚えているが、その時は全く見る気にはならなかった。

舞台は北イタリアの僧院(雪がなかなかいい効果を出していた)。時期から言うと、教皇庁がアヴィニヨンにあった時代で、Pope John ヨハネ教皇の名前が出ていたので、14世紀前半だろう。キリスト教の本が揃っているという最大の bibliothèque と本が重要な舞台装置である。それから異端審問 l'Inquisition、魔女狩り、不寛容、拷問、火あぶり、などなど、ゴフ先生から聞いていた中世を特徴付けるもので溢れていた。アリストテレスの 「詩学」第二部の中に、「笑いは人間だけのもの」というような記述があるらしいのだが、イエスも笑わなかったし、神に仕えるものは笑ってはいけない、とい うのが正統。そういう本は危険極まりないもので、修道僧は笑うだけで異端になる時代でもあったのがわかる。

主人公の元異端審問官フランシスコ会の"バスカヴィルのウイリアム"とその弟子"アドソ"がベネディクト会の僧院での会議に召ばれる。すでに僧一人が死んでいるのだが、その後殺人事件が続発、それが異端をめぐるものであることに行き着く。本筋の彼らの推理は映画を見ていただきたい。これに絡むように横糸として描かれているのでは、と思われるものがあった。

映画は、年老いたアドソが当時を振り返る形で語られる(初めてアメリカ映画に触れた時に感じた音の美しさ、当時は sexy とさえ感じた。その記憶が残っているのだろうか。以前ほどではないが、感じるものがある)。彼が、偶然に若い貧しい(底辺に生きる)娘と触れあう、その記憶は時間が経っても消えない、次第に心の底から湧き出る彼女をいとおしむ気持ち。彼女はあるきっかけで魔女にされてしまうが、誰も彼女を救うことができない。ウイリアムは若者の心に彼女に対する愛が生まれていることを読んでいる。一方アドソは、本の中に生きていて哀れみの心など持ち合わせていないよう見える師の態度に苛立ちを覚える。そんな中で女性について、愛についての会話がある。

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アドソ: これまでに愛したことは?

ウイリアム: 何度も。アリストテレス、トマス、、、

アドソ: そうじゃなくて。彼女を救いたい。

ウイリアム: 愛は修道士にとって問題。トマス・アクイナスが言っている愛は神への愛。女性への愛ではない。女は男の魂を奪う。女は死よりも苦い。しかし神が創ったのなら女性にも何らかの徳があるはず。

愛がなければ人生は何と安寧なことか。何と安全で、静かで、、、そして(しかし)何と退屈なことか。
(How peaceful life would be without love! How safe, how tranquil and , , , how dull.)

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火炙りの刑にあった彼女は助かり、アドソは再び会うことになるが、逡巡しながらも別れを選び、師に付いて行く。そしてそのことを悔いてはいない、師から多くのものを学ぶことができたのだ、と語る老いたアドソの声。人生を振り返り、折り合いをつけているような声。

ル・ゴフさんに中世の扉を少しだけ開いて(initiation をして)もらった後だったので、この映画の根っこを捕まえているのだという感触を持つことができ、興味が尽きることなく最後まで見ることができた。エーコさんの中世に浸ることができたようだ。

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jeudi 2 juin 2005

follow-up です。

この映画のDVDの特典の中に、ドイツ語版のドキュメンタリーがあり、若き日のル・ゴフさんが時代考証について語っていた。感激。真実味を出そうとしたら、細部 (détail) に注意して再現しなければならない。水差し、薬瓶、すり鉢、薬草、、、、
監督のジャン・ジャック・アノーさんは見慣れた中世ではない中世を見せることによって真実味を出したい、というようなことを言っていた。


ウンベルト・エーコさんの世界観 (30 décembre 2012)

昨日の散策中、トゥール市役所前のカフェが開いていたので暖を取る
そこで、駅のキオスクで買ったPhilosophie magazineウンベルト・エーコさんのインタビューを読む
エーコさんは、哲学教育を受けた記号論研究者
あらゆることに通じた彼は、考えることが愉しい営みであることを証明している、とある

彼の言葉からいくつか

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哲学するとは、死との折り合いをつけること

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重要な哲学者は、トマス・アクィナス(Thomas d'Aquin, 1224/25-1274)
その主張の内容ではなく、思考に秩序を与える論理性のモデルとして

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記号論とは、現代哲学の形態である
それは20世紀哲学を襲った言語論的転回に向き合う最良の方法だから
言葉で表現されたものと言葉との関係をどう見るのか
アングロ・サクソンの分析哲学は、純粋科学を真似て心的要素を排除した
言葉を純化し、外部にある物や状況の標識として以外には使用しない
存在しないものには興味がないのである
それに対して、記号論は分析哲学では問題にならない心的存在にも興味を示す
人間存在にとって避けることのできない文化的、道徳的、倫理的な側面も扱う
より複雑で、興味深い領域である

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翻訳には解決されていない問題がある
原典は変わらないのに、なぜ翻訳は古くなるのか
それは、翻訳は一つの解釈であり、解釈は時代の制約を受けているからではないか
他の芸術と同じように、常に復元し、再解釈する必要があるのだ

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神なき倫理は可能かと問われれば、可能だと答える
それは体に基づく倫理である
体の要求に抵触しないかが問われる倫理である

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記号とは、わたしの頭にあったものを他人の頭に入れることを可能にするもの
それは実在するものとは何の関係もない
存在しないが、真なるものは含まれるのである

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ヨーロッパは多言語による脅威に晒されている
しかし、一つの言語に統一することでこの問題は解決できないだろう
ヨーロッパには言語的にも精神的にも多言語を使う能力がある
多言語主義とは、異文化理解に向けて努めることを意味している
その観点からの貢献が可能ではないか

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やはり、記号論に関するところが興味深い
記号論的世界観には共振するところがある
ヨーロッパにいることで、多言語主義の影響を目に見えない形で受けているのかもしれない
そんなことにも気付かされたヨーロピアンのお話であった


 正確に選ばれた言葉の力 (11 avril 2013)

今日はテーズに関連したアイディアとともに目覚める
戻ってからまだ手つかずなのに不思議である
ずーっとこれではいけない、とどこかで思っていたのだろうか

日本に帰る前、いつも通っていたカフェがなくなったことについては触れた
今回戻ってみると、週末に愛用していたアラブ系カフェのシャッターが下りている
どこか寂しさがあるだけではなく、生活のリズムが狂ってよろしくない

昼から街に出る
すぐにカフェに入る気分ではなく、久しぶりになるカルティエを当て所もなく歩く
暫くするとリブレリーが現れる
ウンベルト・エーコ(Umberto Eco, 1932-)さんの新刊が目につく
Confessions d'un jeune romancier 『若き小説家の告白』

誰の告白かと思いきや、ご自身のものであった
最初の小説『薔薇の名前』を書いたのが五十前で、まだ時間が経っていないということらしい

小説・詩などの創造的な文章と事実を記載するだけの科学的文章との対比に触れている
学者の中には創造的な文章を書いてみたいと思っている人が多いという
ご本人はよもや小説を書くことになるとは想像もしていなかったようだ
エーコさんの小説に興味を持っている方には参考になることが多いのではないだろうか

その他に数冊気になるものがあった
今日はカフェを2軒はしご

ジョゼフ・アディソン(1672-1719)という方が1712年に出した『想像の愉しみ』という本があるらしい
その中にある言葉をエーコさんが引いていた

「正確に選ばれた言葉は、対象の見かけそのものよりも生き生きとした思想を齎す描写力を持つものである」

今日印象に残った言葉である





  Hôtel de Ville de Tours





samedi 20 février 2016

在るがままを受け入れる



昨日の観察はどうも正確さに欠いたようだ
そんな声と共に目覚めた
昨日のタイトルの最後に付けた疑問符は、これは違うかもしれないという気持ちの表れだったのか 

昨日、これまでは旅行者のような視点で見ていたと書いた
それは、どこか突き放したようなところがある視点ということではなかったのか
今回は定住者を目指す人として見ていると書いた
より正確には、その視線に微かな愛情のようなものが伴っているということではなかったのか

ここにあるこれ、あそこにあるあれは一体何なのか、という視点
何気ないものに対する好奇の心
これこそ、哲学の一つの姿に繋がる「すべてのものを初めて見るもののように観る」という姿勢

旅行者の場合、自然にそのような見方になりやすい
愛情が伴っているのか否かは問わないが、、
しかし、それは定住者と旅行者との本質的な対比ではないように感じる
努めれば、定住者でもそのような視点を持ち得るからだ
そこでも愛情の有無は関係がないかもしれない

今感じているのは、「在るがままを受け入れる」という心持ちになって来たのではないかということ
そして、それは愛情の根にあるものと繋がっているように見える
その上で、それは一体何なのか、と問い直す

昨日感じた変化の構造は、こういうものではなかったのだろうか







旅行者から定住者へ?



今回の日本滞在は、これまでよりは長くなる
そのためではないかと思うが、これまでの帰国とは心の状態が異なっているように見える

これまでは、どちらかと言うと、旅行者として日本を眺めるようなところがあった
しかし、今回はこちらに根を下ろそうという人間として周りを見ているように感じている
実際にどうなるのかはわからないが、それは精神に安定感を与えているようにも見える

ただ、周囲の世界を客体化するという視点はこれまで通り残るだろう
8年超も外にいたので、そんなに簡単になくなっては詰まらない




jeudi 18 février 2016

学生としての生活を思い返す



改めて学生時代を思い返す

学生としては全く感心しない生活を送っていたことが見えてくる
指導教授がよく放っておいてくれたものだと改めて感心する
わたしの立場が逆であれば、と想像すると、それが良く分かる

元々のアイディアは、自分の持てるすべての時間を使って考えてみたいというものであった
その点では、理想的な過ごし方をしたとも言える
今の時点で振り返ると、良くもあれほど羽ばたくことができたものだと感心する
これからやり直してみよ、と言われてもとてもできるものではない
そこには貴重な原体験が詰まっている
それは、これからどのようにでも解釈できる、時とともに意味が変わってくるだろう体験である

このように見ると、総じて言えば、良い経験をしたと言えそうだ
ただ、学生としての時間が余りにも少なかったように見える
その部分を充実させるのが、これからの時間ではないのか
これはスートゥナンス翌日の感慨に近いものがある

そんな思いが湧いている冬の朝である





mardi 16 février 2016

動き出すまで



ようやく時差ボケが取れてきたようだ
新しい環境で生活を始める時、すべてはすんなり流れない
ここ数日、プリンターのインストールに手を焼いていた
これまでには経験したことがない
今日、電話で1時間ほど話を聞きながらやり直したところ、やっと動き出してくれた
こんな小さなことだが、すっきりした

それから前回触れたように、体にも少しずつ注意を向けるようにしている
そうすると、体がゴチゴチに固まっていることに驚かざるを得ない
腰も相当に危ない
向こうでは殆ど気付かなかったことである
あるいは、注意が向かっていなかったと言った方が正確かもしれない





vendredi 12 février 2016

頭ではなく、体の全体を使う



久し振りに日本に帰って来た
来月に予定されているサイファイ研の活動のためである
学生という縛りが取れたため、これまでよりは長く滞在する予定である
振り返えれば、学生の時にも長い滞在はできたはずである
向こうでなければできないことはそれほどなかったからである
しかし、無意識の内に縛りをかけていたのだろう
精神の高まりは維持されていたのだろう

昨年一年、机に向かい座っていることが多かったせいか、筋力が落ちているように感じる
画面を眺める時間が長かったせいか、目の衰えも感じる
向こうの環境を離れたために、そのことが良く見えるようになっている
型に嵌ったライフ・サイクルの中にいると、そのことに気付かないのだ
ある意味では、よくもあの単調なサイクルに従っていたものだと我ながら感心する
今回の滞在では、頭の中の全体ではなく、全身的な配慮をしたいものである





jeudi 4 février 2016

予想もしない展開



この一週間を振り返れば、それ以前には想像もできないような展開があった
疲れを感じるくらいである
つまり、精神状態が変わり、周りの景色が変わって見えるようになったということである
しかし、もう以前からそうだったような気分になっている
この感覚をどう説明すればよいのだろうか

すべてを当たり前のように感じるようになっている
それは感受性の麻痺なのか
あるいは、日常のレベルで起こることは些細なことと考えるようになっているということなのか
つまり、その底にあることこそが重要なのだと見るようになったためなのか
まだよく理解できていない

いずれにせよ、卒業という断絶の後、考えなければならないことが多そうな今年である
昨年の正月のように、大きな出来事により日常に亀裂が入る時、何かが生まれる機会が顔を出す
ある意味では、二年続けて創造的な対処が求められることになりそうである
そこでいつも期待しているのは、自分自身が驚くような展開である

ただ、何かが見つかったとしても、それは自分の意思ではなく、決められていたという意識がある
自分が決めていると思うのは錯覚であるという一派の考えに近い
ああそうだったのか、と受け止められるようになってきたということになる
ひょっとすると、上で書いた感覚もこの意識の下では当然なのかもしれない

今、そう思い付いた 






mercredi 3 février 2016

メゾン・ドーギュスト・コント訪問



今日の午前中は事務手続きに追われた
まさに昨日の今日に相応しい展開になった
何かが急に動き出したという感じだ

来月のサイファイカフェSHEでは、オーギュスト・コントさんの宗教を取り上げる予定だ
そのため、肉感的な感触を味わうためにコントさんの家にあるミュゼを訪問した

もう10年以上前になるが、パリを訪問した時にこの家の前を通ったことだけは覚えている
ただ、その場所がどこだったのか自分の中では謎のままになっていた
殆ど意味を持っていなかったからだろう
こちらに来てからもその前は何度も通っていたが、今日まで気付かなかった
こんな身近にあったのか、という思いである

閉館前の30分ほどだったが、静かな部屋の中を歩きながら思いを巡らせた
何かそこから生まれてくるだろうか










これからの革袋は?



今年に入り、殆ど曇天と雨天で、春が待ち遠しい

意識した時間の中にいていろいろなものが詰まっているはずだが、やはり時の流れは速い
ただ、時が流れていると思わなければ、それ相当に充実しているというべきなのだろう
この瞬間にすべてが詰まっているのだから、ある意味永遠でもある

この感覚を意識できるようになるまでには、長い静かな時間が必要であった
それを求めていたわけではないのだが・・・
日本で仕事をしている時には、無理であった
この8年余りの時がそれを可能にしてくれたように感じている
それだけでも大きな意味のある滞在になったと言えそうだ

元旦、今年はこれからのライフスタイルを探る年になるだろうと書いた
そして先日、自らがやるべき短期のプロジェとでも言うべきものは姿を見せていることを書いた
それは殆ど頭の中でやることなので、場には関係がなさそうにも見える
ただ、場は想像以上に大きな影響を与えることをこれまでの経験が教えてくれている

そう言えば、最初のブログから新しい場所に移る時、次の言葉を引用したことを思い出した

"Il faut mettre le vin nouveau dans des outres neuves" (新しい酒は新しい革袋に)

どのようなことになるのか、暫く経過を観察することにしたい






lundi 1 février 2016

運命の出遭い?があったリブレリー再訪



大袈裟に言えば、わたしの運命を決めることになる言葉に出遭ったリブレリーを9年ぶりに再訪した
当てにはならないが、こちらに来てから訪れたような記憶がない
ここでのエピソードはつい最近も触れたばかりだが、時が経つにつれ、その意味は大きくなる

退職前の2006年12月末、これからを模索するためにパリを訪れた
その時に泊まったホテルの横に、このリブレリーがあった
チャン・リブレリーである
その夜、散策のためにホテルを出るとこのリブレリーがあったので、暫く時を過ごすことにした

今でもこちらのリブレリーには感じるところがある
しかし、当時はもっと強い印象を残したのではないだろうか
薄暗い光の中、壁だけではなく、いくつもの机の上に本が並べられていた
そして、哲学関連の机を眺めている時、「生き方としての哲学」という題名が目に入り、手に取った
古代哲学の研究者ピエール・アドーという方のインタビュー本であった。

読み進むうち、著者の人生の捉え方、哲学の捉え方がわたしのそれと共振するのを感じたのである
これからを考えている時期であり、哲学とは?という問いにも思いを巡らせている時期でもあった
このタイミングだったので、滲み込むようにその言葉が入って来たのだろう
例えば、
「古代人にとって、哲学とは体系の確立ではなく、生きる選択であり、変化の必要性である。・・・私はいつも哲学を世界の捉え方の変容と考えてきた」 (ピエール・アドー)

「哲学とは体系の確立ではなく、自分自身の内、自分を取り巻く世界を何ものにもとらわれることなく観ることを一度決意することである」 (ベルクソン:アドーによる引用)
これらの言葉はわたしの気持ちを奮い立たせる効果を持っていた
それまでよく理解できなかった哲学という営みの大きな側面が見えてきた、という感覚であった
この出遭いにより、哲学への道が異質なものではなく、最も自然な道に見えてきたのである

今日は、その出遭いの場に入り、どんな心境になるのかを観察することにした
周辺を歩いても、当時の精神状態を思い出すことはできない
店内に入る
ジャンルの配置は昔と変わらない
そして、9年前の場所に立ってみたが、懐かしさを感じることはなかった
いつものように、現在の興味に合う本はないかと探し回り、数冊手に入れていた
9年振りとは言え、まだ現場の人間なのだろう

さらに10年後くらいに訪れた時、この場の意味も変わり、今日とは違う感情が湧いてくるのだろうか



  9年後の現場







サイファイ・カフェSHEとカフェフィロPAWLのお知らせ

La Fontaine du dialogue, BUSATO
『対話の泉』 


科学と哲学に関する活動をサイファイ研究所をベースに行っています

活動の一つであるカフェ開催のお知らせをいたします

今回から東京の他に札幌でも開催することに致しました

詳細は、リンク先をご覧ください

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております



第1回サイファイ・カフェSHE札幌

 2016年3月2日(水)、18:30~20:30

科学にとっての哲学、哲学にとっての科学

札幌カフェ

案内ポスター



第3回カフェフィロPAWL

2016年3月8日(火)、18:20~20:00

エピクテトスの人生と哲学

恵比寿カルフール

案内ポスター



第9回サイファイ・カフェSHE

2016年3月10日(木)、11日(金)、18:20~20:00

科学と宗教: オーギュスト・コントの場合

恵比寿カルフール

案内ポスター