2017年6月27日火曜日

奈良で会話の文化を楽しむ



今日は午前中、仕事をやった後、奈良に向かった
奈良女子大学の渡邊先生と雲島先生とお会いしてお話をするためである
私にはじめじめとした一日であったが、少し前は酷かったらしい
古い街並みや田舎の景色を味わった後、指定の場所に伺った
古民家を改造したところで、畳の上で食事するのは久し振りであった
奈良のお酒とお料理も満喫した
しかも雰囲気のある庭を眺めながらで、あっという間に3時間以上が過ぎていた

渡邊先生は大学の仕事の他に学校の校長先生もやられているとのこと
大変ではないかと想像したが、柔軟にこなされているようで、適任ではないのではないだろうか
お話も科学の中だけに止まらず、幅広い経験と教養に裏打ちされているので、興味深かった
一方の雲島先生は英国の大学院で文学を修められたとのことで、日本語のように英語を操られる
しかも哲学にもその手を延ばされようとしているので、話に追いつくのが大変であった
ということで、話題は途切れることなく、多岐に亘っていたと言えるだろう

最近、古代の哲学の中に埋もれているので、現代の視点から突っ込まれると動きが取れなくなる
これから先に長い道のりが待っていることが見えてくる
しかし、このように異分野の人が言葉を交わすことは何かを生み出すことに繋がるような気がする
その元にあるのは、会話の文化を大切にしようとする精神のようなものではないだろうか
この問題は今日の話題にもなっていたが、お陰様でわたし自身は大いに刺激を受けた
日本を行脚?しているのもその自覚があるからではないかと想像している

いずれにせよ、豊かな時間を味わうことができた
お二方には改めて感謝したい
そして、又の機会が巡ってくることを願いたい





2017年6月26日月曜日

大阪で昔の研究者仲間と語る

            久野高義先生


今夜は神戸大学で教鞭をとられていた久野氏とのディネがあった
科学者の時代からお付き合いはあったが、退職してからはほぼ毎年お会いしているのではないか
今日はお忙しい仕事の合間を縫って、大阪で時間を作っていただいた
感謝したい

まず、近況についての話があった
日本社会の現実にも関わりを持っておられ、こちらの想像を超える世界を目撃されている
雲の上に生活している者には触れたくない世界である

それから、仕事を終えてからの工夫として、定期的に仕事をするようにしているとのこと
丁度、今日はその日に当たったようだ
研究面では、現役の時からアジアとの交流をされていたようだが、今も模索されているとのこと
中国、ネパール、東南アジアなどに実際に出掛けて行くこともお考えのようである
未だ研究への意欲が衰えていないとお見受けした
こちらのプータロー状態とは大きな違いである

ネパールのものだっただろうか
健康についてのアドバイスがあるとのことで、貴重な助言をいただいた
体に悪い第一はタバコ、第二は座ってばかりいることとのこと
これはわたしが日頃からやっていることだが、直ぐに改めることは難しそうである
プラトンが言うように、身体が滅び、精神だけになるのが哲学者だとすれば、無理からぬところだ
ただ、われわれは現代に生きている
フランスに戻って、一考する値はあるのではないか

アジアが中心であった先生は、ヨーロッパの主要国をまだ訪問されていないとのことであった
近い将来、フランスにも足を延ばす機会が巡ってくることを願いたい






2017年6月25日日曜日

今日から関西



今日から関西に移動した
何人かの方とお会いするためである
こういうことが気にならないのは、外から、あるいは上から日本を見ているからではないのだろうか
日本に落ち着いてしまうと横の移動になるので、その間にあるものが邪魔をして難しそうである

いずれにせよ、今日は数年来の友人とのデジュネとなった
若い方との議論はなかなか噛み合わない
それは当然のことなのかもしれない
これから人生を歩み出そうという人と人生をどう纏めるのかを考えている人の間の溝である
これを埋め合わせるのは至難の業で、溝は最後まで残るのだろう

今日は一息して、明日から最後の準備に取り掛かりたい





2017年6月24日土曜日

第1回ベルクソン・カフェの初日が終わる



今日の夕方から、フランス語で哲学のテクストを読む第1回のベルクソン・カフェがあった
当初予想していたのは2-3名の参加であったが、他のカフェと変わらない人が参加された
これは嬉しい誤算であった
参加された皆様には改めて感謝したい

今回はどのようにやればよいのかを決めかねた中でのスタートとなった
結局、テクストをそのまま読むというスタイルで行った
最初は講師からスタートしたが、希望する参加者数名にも読んでいただいた
まさに、大学の講読コースと同じだとの声も聞こえた
ただ、フランス語という外国語を解読するという過程そのものに魅力を感じている方もおられた
中には、テクストの翻訳をプリントされてきた方もいて、これから参考になるものと思われる

来週の土曜に予定されている二日目も基本的には同じスタイルになるものと思われる
ただ、最初に全体の構図や問題点などを説明してから始めるようにしたい
これは今日の反省から生まれた改善点である
次回は今回よりもスムーズに進むように努めたい
読んでみたい部分をお持ちの方は積極的に参加していただければ幸いである  


ところで、今日選んだテクストはピエール・アドーの「生き方としての哲学」であった
それまで、歴史家は哲学的言説だけを古代哲学の中に見ていた
しかし、アドーが古代哲学の中にはもう一つの要素があることを見出したのである
私がこの言葉に2006年に触れたことが、哲学への後押しをしたと感じている
その意味ではその根を考え直そうという意図もあった

このエッセイでは、ヘレニズム時代、ローマ時代の哲学の特徴が分析されている
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、エピクロス、犬儒派、懐疑派、ストア派などが出てくる
そこで指摘されているのは、次のようなことである

哲学はそもそも手に入らない知に向おうとする運動で、そこに逆説と偉大さがある
哲学は根源的な回心、根源的な変容を要求する精神(魂)の進歩の一つの方法である
哲学は自律性、内的自由(autarkeia)、自足性を達成するための方法である
それだけではなく、特にストア派とエピクロス派では宇宙的意識が加わった
すなわち、われわれが宇宙の一部を構成しているという意識である

さらに、哲学は人生と一体化した永続性ある行為で、絶えず更新されなければならないと指摘する
ストア派の場合、人間の意志が宇宙的自然の意志、すなわち理性と一致すること
エピクロス派では、快楽、それは結局のところ存在する悦びになるが、それを求めること
人生の有限性の自覚と現在への集中を説く
なぜなら、それだけがわれわれがコントロールし得るものだからである
そして、そこには宇宙の全体が含まれ、関わっているからでもある

ここで問題となるのが、ストア派が提唱した「哲学についての言説」と「哲学そのもの」の違いである
哲学とは、構成要素の理論を語ることではなく、それらを生きなければならないと説く
構成要素とは物理学、倫理学、論理学である
それらを生きるとは、それぞれ、宇宙を瞑想し、正しく行動し、よく話し、よく考えることである

ここでアドーは、哲学についての言説は哲学ではない、と言っている
エピクロス派の「哲学者の言説が魂の病を癒すことがなければ、それは空疎である」を引いている
この点は議論の余地のあるところだろう

後半はどのような展開になるのだろうか?


文章を読んでの感想がある
自然科学者であれば、もう少し無駄や反復が少ない、構成も整った文章を書くのではないだろうか
そうした方が論点をより効果的に伝えることができるのではないかと想像されるからだ
しかし、そうはなっていない
文系の人の頭の使い方が違っていると思わざるを得ない


会は当分の間、試行錯誤が続くものと思われるが、ご理解をいただければ幸いである
今日のテクストにもあった通り、これからも変容を続けて行きたいものである



会のまとめ






2017年6月23日金曜日

成熟過程における 「ゆったり、ぼんやり」 の必要性



日本の近代に関する本を読んでいる時、よく分かるというか、共感するところに出くわす
まさに想定外の出会いであった

まず、19世紀イギリスのジャーナリスト、ウォルター・バジェットという人の分析が紹介されている
前近代と近代を分けているのは、「慣習による支配」か「議論による統治」かであるという
慣習とは身分とか内向きに環境を支えているものだが、必ずしも全否定しているわけではない
対する議論による統治は単なる行動愛が支える、一人が勇ましく決める政治と対極にあるもの
それは熟考による時間をかけた議論による政治だという
その前提になるのが、多くの時間を日の当たる場所に寝そべること、単なる受動性だという
ここに痛く感心した

これは私がこの10年余りの間にやってきた「ゆったり、ぼんやり」そのものだったからである
そしてそれこそが、考える上で最も重要なことだと思うようになってきた
哲学の前提だと考えるからである
それがどんなものなのかを説明しているこんな一節がある
同時代人が夢想者と考えた人々、同時代人の関心を引かないことに注目していたために嘲笑された人々、噂にいう星を見ながら井戸に落ちた人々、無用だと信じられた人々がもたらしたものである
メディアで目立つことが横行する現代において、最も欠けているのがこれではないだろうか


さらに「あとがき」にも興味深い認識が出ていた
それは「青春期の学問」に対する「老年期の学問」の在り方である
若い時の学問は狭い領域で競い合う性格が強い
しかし、老年期においてはより広い視点からの研究が求められるのではないかというのだ
言わば、general theoryを目指すような研究である
これもよく分かる指摘である
ここでも「ゆったり、ぼんやり」が欠かせないのだ

ということで、中間にある本題は後回しとなった




2017年6月22日木曜日

正岡子規、あるいは 「狂」 再び



昨日、今日と非常に集中力が上がっている
いつものことかもしれないが、終りに近くなると生活のペースに慣れてくるようだ

先日手に入れた子規関連の本の中に、次の一節があった
「狂」 繋がりで書き留めておきたい
昔から日本の人のえらくもない癖に 「まじめくさつて」 居るのが最も気にくはず。学者でも狂する位でなければ学問が進歩する気遣ひは無いのに、少しばかり出来ると最う天狗になつていやに 「すます」。今でも同じ事ぢや。済度が出来ん。

今日は明治時代の人物が出てくる新書を数冊仕入れた
こちらにいる間に読んでおかなければ、いつになるのかは分からないのだが、、




2017年6月21日水曜日

最たる生きる楽しみ?



今日は朝から雨に降られている
相変わらずの作業が続いている
ただ、これまでにやって来たいろいろなカフェの内容と絡んでくるところがある
このように、いろいろなところに糸が絡み合ってくるような感覚は何ものにも代え難い

同時に無駄なものは何もないということも見えてくる
何気なく在った過去が現在に繋がってくる時がある 
無関係と思われたことが意味を持ってくるという感覚も捨て難い
これは生きる楽しみの最たるものかもしれない
そんなことを思った雨の朝
不思議な乗り物を見た



2017年6月20日火曜日

静かに準備を



今週は落ち着いた週になっている
今回の最後の会になるベルクソン・カフェのための準備を静かに進めている
テクストを読み直すと、まだミスタイプが見つかる
このブログでもそうだが、そこにあるのに見えないのである
こればかりは、何度も見直すしかなさそうである

改めて、テクストを読むということの奥深さと難しさを感じている
目の前にある言葉に潜む意味だけではなく、文章の背後にある歴史を探ると限がなくなるからだ
どこかで止めなければ前には進めない
この状態を逆から見ると、テクストを作ることも至難の業であることが見えてくる
本屋さんに入ると並べられている膨大な数の本
作る側はどこでどうやって止めているのだろうか?





2017年6月18日日曜日

アンジェイ・ワイダ監督 『残像』 を観る



今日も週末気分で、朝の内、少し離れた領域を読む
午後から街に出て久し振りに歩く
体が重く、汗をたっぷりかく
しかし、その後、その昔よく入ったことがある昭和の香りがする食堂でデジュネ
日本ではしっかり食べている
寧ろ、食べ過ぎと言った方が正確か

それから古本屋街を散策
アンジェイ・ワイダ監督の遺作と銘打ってある 『残像』(Powidoki)を観る






この手の映画はこれまで何度も観てきたように思う
国家権力にかかると人間一人の命など吹っ飛んでしまう
それがいかに優れた才能であっても
あるいはそれ故に国家は狙うのか
これは洋の東西を問わない
バディウ氏が言うように、それは哲学的状況である

先日のSHEで取り上げたヘッケルは、政治は応用生物学である、と言った
そういう人の言葉がナチスによって利用され、彼の責任を問う人さえ現れた
例えば、国家を有機体に例えて、生物学の成果を当て嵌めようとする人がいるとする
生命体は一つひとつの細胞よりは全体の命を第一にしている
全体の統一を維持するために、細胞死を誘導することさえある
したがって、と言って、この原理を社会に当て嵌めることは正当だろうか
安易に行われることがあるこのやり方には注意を要することが分かる

社会の中の問題は文化の側が考えなければならないのではないだろうか
そこでは国家権力との距離を文化の側が取ることが求められる
そこから自由である必要があるのだ
今日の映画では、政治と芸術の融合などと言っていた
イデオロギーのない芸術など存在価値がない、というわけである
文化活動が国からお墨付きを得たといって喜んでいるのはどうなのか
本来的には野にあってやるべきことのはずである


帰りは雨に中った





2017年6月17日土曜日

久し振りの週末気分、そこで味わう100歳気分



今回は新しい試みを2つ始めたので、体力と知力が耐えられるのかも注目点であった
昨日で新しい試み一つとこれまでやっていた会を終えることができた
残るはこれまでとは毛色の違うフランス語のテクストを読んで考えるベルクソン・カフェだけになった
このような経験がないので、どのようなことになるのか全く想像もできない

いつも願っていることは帰国前に準備を済ませておきたいというものだが、実現した例しがない
それは長い間に習い性になった最後の最後まで考え続けようという気持ちの表れなのだろう
最後まで形を作ることを拒否しているようなのだ
そう思うしか、この苦しみに耐える道はなさそうである


今日は久し振りにゆったりした週末にすることにした
日本に着いてから知った映画でも観ようという趣向である
いずれ訪れると言われている人生100年時代
自分に関係あるのかないのかは別にして、その姿を見ておこうという気持ちもあった

笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ







前回か前々回の帰国時に、やはり100歳を越えた芸術家のドキュメンタリーを観たことを思い出す
調べると篠田桃江さんであった
映像まであったので観直すことにした






笹本恒子さんには最後まで女性が残っている
しかし、篠田さんの内には男性が住んでいるかのような存在感を感じさせる

映像の中に、雲を眺めて雲の様子を語っているところがあった
やはり雲を眺めて暮らしているわたしには、彼女の言っている意味が手に取るように分かった
それから、自分の人生は地に足がつかない非現実の世界であったというのもよく分かった
これらのことが理解できるというもフランス生活のお陰と言ってよいだろう

いずれにせよ、われわれが若い時には想像もできなかったような世界が展開している
どう対処するのか、それぞれが答えを求められているようである


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lundi 19 juin 2017

むの氏が「自分を土台から作り直す」つもりで戦後を歩んできたと言っていたのを思い出す
それほど激烈ではないにしても、わたしのフランスも同様の含みを持っていたことが見えてくる
"le remaniement" とでも言うべき、頭の中の作り替えである
その過程は未だ進行中であるのは言うまでもない