2018年1月15日月曜日

晴れの日の次は雨、そして哲学者を読む



昨日は朝から気持ちの良い晴れとなってくれた
そのため、予定したことをやる気にならず、陽の光に身を任せていた
久し振りのことである
今日は打って変わって曇り時々雨だったが、午後からの雨は結構激しかった

夜、コンシュ・形而上学の第2章「哲学者」を読む

わたしは哲学的問いに向き合ってきた
他のことには心からの興味を感じなかったからだ
かりそめの恋もわたしの道をそらすことはできなかった

哲学における一つの重大な真理はコギトであると考え、デカルトについて書いた
この見方をフッサールを読んで確信した
その中には1947年に出た『デカルト的省察』(エマニュエル・ルヴィナス訳)があった
「すべての根源的哲学が基盤を置くべき究極の、論理必然的に確実な領域である『エゴ・コギト(われ思う)』への回帰」
この必要性の肯定がわたしの心を捉えた
すべての若い哲学者と同様、わたしも「根源的な」哲学だけを欲していた
それは「論理必然的で、それ自体として根本的な証拠」に基づいていなければならない
「われ思う、故にわれ在り」のものに過ぎないことは言うまでもない
フッサールは「われわれが自分自身で見ない」ものについて語るべきではないとも言った
神は見えなかったが因果律による推論で結論されたので、デカルトに従う必要はなかった
彼が神について語る時には





2018年1月13日土曜日

パリの後は形而上学



昨日は小雨の中を朝からパリへ
パリもどんよりと曇っていた
無事に用事を済ませて日帰りした

コンシュの「哲学者になる」の続きを読む

我々にとって、二つの世界がある
エゴの哲学とコスモスの哲学がある

一つは我々の前にあるもの、そこに開かれているもの
コギト、主体、存在、時間性、ダーザインの哲学
デカルト、カント、サルトル、フッサール、ハイデッガーの哲学である

もう一つは我々とは関係なく存在し、我々を取り巻いているもの
他者と共にいる住まいのようなところ
存在、生成、時間、コスモス、絶対の哲学
スピノザ、モンテーニュ、古代ギリシアの哲学である


哲学は現実の全体についての真理を探究する
それは制限のない無限の世界である
親や師の教えや宗教を信じていると真理の追求にはならない
制限が加わる有限の世界になるからである

デカルトの無限は神であった
スピノザもそうだったが、そこに「即自然(sive natura)」を付け加えた
わたしもそうしたい
世界は我々がいる住まいである

しかし、その境界はどこにあるのか?
我々を取り囲む世界はさらに大きなものに取り囲まれている
エピクロスは我々の世界の果てを星に見た
しかし、こんにちではそれを遥かに超えるところまで行っている

デカルトは無限という「概念」について語った
しかし、それは単なる「概念」ではない
人間は天使がその上を飛ぶように自然の外にはいないことを知っている
いつでも人間を全滅させることができる力に完全に依存していることを感じている
パスカルの「人間は考える葦である」の一節がある
「その葦は自然の中で最も弱い。しかし、それは考える葦である。それを押し潰すためには、全宇宙が武装する必要はない。蒸気、水滴一つで人間を殺すのに十分である。しかし、宇宙がそうしたとしても、人間は殺す側よりも高貴である。なぜなら、人間は死ぬことを知っているが、宇宙は人間に対する優位性を何も知らないからである」
これは神の問題ではなく、高貴さでは人間に劣る力の問題である
なぜならその力は自分のしていることを知らないからである

主体の哲学は人間の現実の存在を捨象している
哲学者は単なる「主体」ではなく、人間を感じなければならない
自然の一部、それも考える一部であることを感じなければならない
それこそが哲学の初めである
しかし、それは初めにしか過ぎない




2018年1月11日木曜日

哲学者になるとは?



昨日の午後、それまで陽の光が見えていた空が急に曇り、やや激しい雨となった
そんな中、それまでラグビーをやっていた幼稚園児が止めるかと思ったが、続けていた

今朝シャッターを開けると、もう小学生がグラウンドの周りを走っている
それを見ているまだのんびりしたい人もそろそろ動き出してはどうか
そんな声が聞えた
ということで、徐に新たなプロジェに向き合うことにした

その一つに形而上学について改めて考えてみるというのがある
これまでにいろいろなものを読むうちに、自分の中でのイメージはできつつある
そのイメージをより明確な形にできないかという魂胆である
まず、昨年マルセル・コンシュ氏から推奨されたご本人の『形而上学』を読むことにした

第1章では、「哲学者になる」とはどういうことなのかを論じている

普通の人は、仕事をして社会における役割を果たしている
自らの状況や人間とは何かなどの問いには向き合うことなく
それに対して哲学者は、社会から距離を取り、孤独の中にいるという選択をする
哲学者と哲学研究者との違いもここで明らかになる
哲学研究者とは学生の相手をするという社会的な仕事をしている普通の人なのである
コンシュ氏によれば、哲学とは社会の要求に応えるものではないという
人間の問題とは、もの・ことの全体における人間の意味である
現実の政治的決断や歴史には何の関係もない

それから、哲学とは宗教が思考に影響を与えないところでのみ存在し得るとしている
そのような状態にあったのは、古代ギリシアしかない
子供の精神を縛ることなく、自由に思考できるようにしていたからである
前もって与えられた「真理」がなかったのである
その意味では、哲学者になるということは、古代ギリシア人になるということである
近代の哲学は、デカルトもカントもヘーゲルも「神学化された」哲学であった
しかし、宗教との和解は哲学と真理を犠牲にしたのである

哲学者は次のようなものから離れなければならない
欲望、名誉、金銭、栄光、意見、幸福、気晴らし
ただ、哲学者の孤独は人がいる中での孤独である
自分自身との会話があり、過去や現在の哲学者との会話もある
ご本人もいろいろな哲学者について書いてきた
しかし、読み過ぎると人文科学や博識の中に入り込み、哲学者から離れることになる
勿論、研究することを否定しているのではない
哲学的活動を阻害するものから離れよ、と言っているに過ぎない





2018年1月8日月曜日

今年の仕事始めか?



今日は気分を入れ替えての仕事始めのような感じだった
日本は明日からのようだが、、
午前中に用事があり、外に出る
すんなり終わった後は、そのまま場所を2回変えてプロジェに当たる
週末ゆっくりしたせいか、非常によく集中できたようである
この調子が持続するとよいのだが、なかなかそうは問屋が卸さない





2018年1月5日金曜日

新年の便り



相変わらずの曇り時々雨だ
夜、雨も上がり、向かいのグラウンドがライトアップされた
緑が眩しい
新年の練習始めだろうか

こちらに来て数年してから新年の挨拶を止めてしまった
失礼が続いているが、そんな中、挨拶をいただくことがある
今回、複数の現役の研究者が同じことを言っていたので驚いた

わたしが毎月書いているエッセイを読んでいただいているとのこと
普段はなかなか読む時間が取れないという
仕事をしている時は頭の使い方が違っている文章は読む気にならないのかもしれない
自らを振り返ればよく理解できる

ところが、この休みに纏めていくつか読んでみたという
そうすると、間隔を空けて読んでいる時には分からなかったことが見えてきたという
しかも、それぞれが繋がっているというのだ
自分の書くものがどのようなものなのか、自分ではなかなか分からない
そういうものかと思って感想を読んでいた

今日一番驚いたのは、10年以上前に日本で知り合ったフランス人から挨拶が届いたことだ
調べて見ると、記事が出てきた
こちらに来る1年前のことなので、まだ先は見えていない時期のことである
読んでいると、当時の心象風景が蘇ってきた

エミール・シオラン EMIL MICHEL CIORAN (2006-08-04)

その後フランスに戻り、これから韓国でフランス語教師をするという時にも会っている
それ以来のメールである
今度、7年振りに帰国して、高校の先生を始めることにしたという
そのうち再会ということがあるかもしれない
この世は不思議なものである




2018年1月4日木曜日

今年最初の振り返り




連日の曇りと雨で少々嫌になっている
去年の正月はどうだったかと読み直してみたら、同じような愚痴が書かれていて驚いた
この町の正月はそういう天気なのだろう

今年を思い描いてみる
どうも振り返りの年になりそうな予感がする
昨日プロジェが終り、今日はゆっくりしていた
その予感に従ったわけでもないだろうが、このプロジェの過程でメモしたものを読み返す
通して読むのは初めてだったが、感得したポイントがよく分かった




2018年1月3日水曜日

今年最初のプロジェが終わり、一段落



今日は朝の内晴れ上がってくれたが、午後からは予報通り曇ってきた
年末年始も追われていたプロジェが今日で一段落した
予定より若干早く終えることができた
延べ期間とすれば2年を超えるものだったが、まだ終わっていない
依頼されたとはいえ、大変なものに取り掛かってしまったものだ
ただ、それまで想像もしていなかった領域なので貴重な経験になったことは間違いない
これで中断されていたプロジェに当たることができそうなのだが、、





2018年1月1日月曜日

新年のトゥール



新年のトゥールは雨、午前中に雷雨となった
しかし、午後からは雨も上がり、静かになる
そんな中、プロジェに終われる年の初めとなった
何とか予定通りに進んでいるが、今週いっぱいはかかりっきりにならなければならない
どうもこれが今年を象徴する日常になりそうな予感がする

去年の元旦の記事を読み直してみると、早々に外に出ている
そして、プロジェのことが出ている
それがどんどん強まってくるのが去年だったと言えるだろう
どうもこちらに来る前の状態に戻りつつあるようだ


ヨーロッパでの10回目の正月を迎えて (2017.1.1)





2017年12月31日日曜日

普段と変わらない大晦日



これから1週間ほどは曇りか雨の予報だったが、午後から晴れてきたので外に出た
人出は普段と変わらず、店は殆ど閉まっている
いつものカフェは開いていたので、いつもの席に落ち着く

現在並行して進めているプロジェについて、その全体を掴むようにしながら思索を進めた
吉田秀和的ふんぞり返りの中でのことである
 いま日本では別の人がその姿勢で話題になっているとの話を小耳に挟んだのだが、、、
この状態での精神の在り方は精神の健康を保つ上で欠かせない
これを感得できたのは、フランスでの全的生活の成果の一つだろう

夕方から土砂降りがあった
小降りになったところで帰ってきた





2017年12月30日土曜日

新しい年の新しい姿



2017年ももう少しで終わろうとしている
今年は学生の後の移動が終り、落ち着いて過ごすことができた1年ではなかっただろうか
この間、一つの重要な考えが浮かんだ
つい最近のことかと思って検索したところ、わたしにとってはかなり昔のことで驚いた

瞑想生活から省察生活へ (2017.9.15)

いつもぼんやりしている状態にいた瞑想生活が10年に及んだことになる
その時間の中で自分の中にある問題がかなり見えてきた
これからはそれらを対象にして、省察を主にした生活に移行してはどうかというものだ
と同時に、これまで捨象してきた体を取り戻すということもその中に入るだろう
心身二元論に立つとすれば、そのバランスを取り直すということでもある

これらが新しい年のテーマになりそうである
研究上のプロジェではなく、それをどのような空間、様式で進めるのかという問題になる
その姿は見えてくるだろうか