mercredi 24 mai 2017

取り敢えず、エンジンをかける



概日リズムが狂ったままで、まだ完全には戻っていない
時差ボケか、単なるボケなのかは分からないのだが、、、
その昔は数日で回復したのだが、今回は1週間を超えている
これも経年変化か?

日本に戻ると、日常的なことが頭に上り、深く沈みこむことが難しい
向こうにいると、どっぶりといろいろな問題に入り込むことができる
頭の中がすっきりする、あるいは透明になるという感覚だろうか
なぜなのか分からないが、そういう特徴を利用して生活していることになる
日本では、今回も少しだけ活動的に動き回りたいものである

とにかく、今日から普通のペースに戻すことにした
院生の時には帰国しても図書館に落ち着くなど、努めてもできなかったが、今は違うようだ
精神状態が大きく変わっている
初日はエンジンをかけるところで終わったようだ






lundi 22 mai 2017

「文体は思想である」 ということの意味



「文体は思想である」 という表現を聞いたことがある
このテーゼはいろいろな人がいろいろな言い方で語ってきたものと思われる
古くはセネカが 「文体は思想の衣である」 と言っている
"Le style est le vêtement de la pensée." (Sénèque)
新しい考えなどこの世に殆どないという一例だろう

実は、この言葉を聞いた時、それがどういうことを意味しているのか、よく分からなかった
しかし、今回日本での時差ぼけの中で分かったような気がした
おそらく、一つの意味が

それは翻訳のことを考えている時に起こった
ここに外国語の文章がある
それを日本語に置き換えるのが翻訳だが、経験から訳文は殆ど無限に可能であることが分かった
まず、一つの単語にどのような訳語を選ぶのか、である
それは訳者の日本語世界と文章の捉え方などに依存してくる
それだけでもかなりのオプションがあり、それを各文章で考えなければならないのである
途方もないバリエーションが可能であることが分かる

もう一つの要素に文体がある
それを考えた時、次のようなことが頭を巡ったのである
一人のフランス人がフランス語という言語世界の中で自らの思想を展開している
その表現はフランス語世界の中での一つの階層のようなものに属しているはずである
表現に至るまでに著者の頭の中で起こっている思考の襞の複雑さのようなものの表れになる
単語をどのような入れ物に入れるのかが文体で、それを選んでいるのは著者である
もしそうだとすると、文体は必然的にそれを選んだ人の思想を表すことになるだろう
それが意識されているか否かにかかわらず
これは宣長の意と姿の対比にも通じる
意の思想もさることながら、姿にも思想が表れることを意味している
そこに芸術家の真骨頂が発揮されることになる

翻訳の難しさを感じたのも、まさにこの点であった
ある階層にあるフランス語を同じレベルにある日本語に置換しなければならないのである
それは可能な作業だろうか
事実だけを伝える文章の場合には 「意」 だけが問題になるので比較的容易だろう
しかし、文学作品などは至難の業に見える


それまで分からなかったこと、気付かなかったことが見えてくる一瞬がある
それはまさしくわたしにとっての発見なのだが、昨年春の帰国時にも同じようなことが起こった
それまで薄々感じてはいたのだが、明確に意識されていなかったことに言葉が与えられたのである
そして、そこから一つの世界が広がった
これからも注意深く観察していきたいものである




dimanche 21 mai 2017

サイファイ研究所ISHEから催し物のご案内



サイファイ研ISHEの今年前期の活動をお知らせいたします
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


第3回サイファイ・カフェSHE札幌
  <科学を哲学や歴史の視点から考え直す>

  2017年6月3日(土) 16:00-18:00
  札幌カフェ(5階会議室)
  
  テーマ: 病気が治るとはどういうことか
  ポスター 

第5回カフェフィロPAWL
  <「生き方としての哲学」の流れにある哲学者の考えを振り返る>

  2017年6月9日(金) 18:30-20:30
  ルノアール・飯田橋西口店(2号室)
  
  テーマ: ソクラテスの死が意味するもの
  ポスター

第1回サイファイ・フォーラムFPSS
  <科学者を中心に科学の外から科学を考え、科学を文化にする>

  2017年6月10日(土) 13:45-16:15  
  日仏会館(509号室)
  
  テーマ: フォーラムの方向性について
  ポスター 

第11回サイファイ・カフェSHE
  <科学を哲学や歴史の視点から考え直す>

  2017年6月16日(金) 18:30-20:30
    ルノアール・飯田橋西口店(2号室)
  2017年6月17日(土) 16:30-18:30
    ルノアール・四谷店(3階A)
  
   (両日とも同じ内容ですが、会場と時間が異なっています)  
  
  テーマ: エルンスト・ヘッケルの科学と人生
  ポスター 

第1回ベルクソン・カフェ(2回シリーズ)
  <フランス語のテクストを読み、哲学する>

  (1)2017年6月24日(土) 16:00-18:00
    恵比寿カルフール(A会議室)

  (2)2017年7月1日(土) 17:00-19:00
    恵比寿カルフール(B会議室)

    (開始時間と会議室が異なっています)
     1回だけの参加でも問題ありません
  
  テクスト: Pierre Hadot, « La philosophie comme manière de vivre »
        (「生き方としての哲学」) 
        Exercices spirituels et philosophie antique (Albin Michel, 2002)  p. 289-304
   
   参加予定者にはあらかじめテクストをお送りします

  ポスター



サイファイ研究所の活動にご理解のほど、よろしくお願いいたします






samedi 20 mai 2017

再びの嬉しい繋がり



まだ時差ぼけのようである
昨日の偶然は、藤田哲也(1920-1998)という気象学者についてのドキュメンタリーであった
若い時にアメリカに渡り、後にアメリカ人になった方である
その後半を観ることができた
ウィキによれば、去年の再放送のようだ
そこで印象に残った言葉は次のもの

「言いたいことを言え。半分間違っていても半分正しければその人生には価値があったことになる」

当初は全く受け入れられなかったが、後に実証されることになる新説を出した経験を持っている
飛行機事故の原因となるマイクロバーストの発見である
そのアイディアは、若い時に長崎で行った原爆被害の調査であったという
この点を強調したこともアメリカ人研究者に抵抗感を持たれた原因になっていたのではないか
今ではその対策として飛行場にアンテナが設置され、この種の事故は殆どなくなったという
英語での講演が流れていたが、議論好き、論争好きという印象を持った

博士は退職後、糖尿病で入院を余儀なくされる
友人の話によると、生きる意欲を失っていたので目的を持たせようとしたという
目的として勧めたのが病状の記録で、それに対して純科学的な記録を残している
おそらく、博士の目的は科学の中に限定されていたのではないかと想像させる
それ故、立派な業績を上げることができたとも言えるのかもしれないが、、

このエピソードには最近のエッセイで触れたこととも関係する重要なことが隠されている
それはどこか他のところにある目的に向かうこととそのものだけのために進むこととの違いである
そのものだけのために進むという中の最強のものは、生きることが目的になることだろう
それができれば、科学を失っても意欲を失うことはなかったのではないだろうか

もう一つ改めて見えてきたことは、アメリカの科学者の一般的な考え方の特徴である
それはあくまでも科学の中での思考を重視することである
それ以外を認めない "no nonsense"の世界なのである
今のわたしには非常に窮屈に感じるところでもある


これは今朝の番組だっただろうか
映画の鈴木清順(1923-2017)監督の言葉が印象に残った

「一期は夢よ、ただ狂え」

これも最近のエッセイ、さらには前回の記事と「狂」繋がりである
時差ぼけも悪くない
興味深い出来事が続いてくれた





jeudi 18 mai 2017

日本から見えるヨーロッパ精神




久し振りにテレビのある生活に戻ってきた
観るものを選ばなければ、頭の中は大変なことになるだろう、といつもの感想が浮かんでくる
それは、本来われわれが持っている空間を十分に使うことができなくなるという危惧である
厄介なことは、普通の生活の中ではこのことに気付くのが至難の業であるということだ

さて、昨夜、時差ぼけの睡眠から目覚めた時、あるドキュメンタリーが始まったところだった
わたしのテーマになって久しい「偶然は必然である」が浮かび、観ることにした
それは、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のモデルについてのお話であった
この絵はダ・ヴィンチが最後まで手放すことがなかった3点のうちの1点である
アルプスを越え、終の棲家となったアンボワーズまで持って行ったものである

番組には絵画の科学的分析をするフランス人研究者、イタリアの服飾研究家と歴史家が出ていた
まず、彼らの対象に向かう態度に形容し難い余裕のようなものがあることに改めて気付く
それは歴史が齎すものなのだろうか
それ以上に、歴史について振り返るという性質が齎すものなのかもしれない
省察であり、哲学的態度であり、言葉の重視である
それは日頃から感じていることだが、そこにヨーロッパらしさのようなものを見るようになっている
そして、それを好ましいものと考えるようになっている

ドキュメンタリーには、これまで知らなかったことが出てきて、それ自体でも楽しめるものであった
しかし、それ以上に、事実や科学を超えるところにも目が行っている研究者の姿が見えてきた
特に、最後に出てきたイタリアの老歴史家の姿は心打つものがあった
もう少しで、北斎のように「狂」の字が入る境地に至るのではないか
そう思わせる愉快さを感じた


前回の帰国でもヨーロッパに関する番組が少なくないことに驚いた
おそらく、それだけ要求があるということなのだろう
歴史ある日本などは、ヨーロッパにより近いものを感じているということなのではないだろうか
それがマジョリティではなさそうではあるのだが、、、




dimanche 14 mai 2017

外国語との付き合い、あるいはなぜ外国語を学ぶのか?




雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイを紹介いたします

第44回 外国語との付き合い、あるいはなぜ外国語を学ぶのか?

 医学のあゆみ (2016.5.14) 257 (7): 803-807, 2016

お暇の折にでもお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします






vendredi 12 mai 2017

現象学事始め、あるいは二種類の反省



今日は夕方、急に雨が降り出し、雷が鳴り続いていた
昨日から空の様子がおかしいようである


フランスに渡る前、フランスの哲学教師をやっていた方から仏版ブログにコメントが届いた
そこには、ブログに溢れる活力は現象学的なものの反映であるとの診断が書かれてあった
さらに、私はフッサールやハイデッガーを愛するために生まれてきたとのお告げが添えられていた
このことは以前に触れたようにも思う
しかし、その意味は分からないままである

最近、移動の時にフッサールの『デカルト的省察』を読み始めている
やはり、日本語がピンと来ず、難しい
このような領域は、自分が同じような経験をしていなければ分からないことが多い
それ故、若い時から哲学をやる難しさを想像している
ただ、今日読んだところは言いたいところが分かったような気がした
一次意識と二次意識、あるいは意識の三層構造とも関係しそうに見えたからではないかと思う

それは反省というものにも二種類あるというところであった
一つは日常の出来事について反省するという意味での反省で、われわれが時々行うものである
「直進的」という言葉で表現されている

もう一つはそれとは別で、そこで起こったことや反省していることについて反省するものである
そういうものが存在するのかどうかということについての反省も含む
この場合、根源的な問いかけになるため、フッサールがエポケーと呼んだ過程が必要になる
「判断停止」と訳されていた

我流の解釈では、一度立ち止まって、存在するもの、経験したことを考え直すということだろうか
存在しているものは確かに存在しているのだが、それを現実ではなく現実の現象と捉えるのである
そこに一つのクッションができ、現実を少し離れたところから見る客観性が生まれるように見える
「もの・こと」により深く迫ることができそうである

日常における反省とエポケーを伴う現象学的な反省では記述のされ方も異なってくるだろう
そして、後者により最初の体験の意味が異なってくる可能性さえある
つまり、「関心を持つ」自我の上に現象学的自我が存在するという「自我の分裂構造」を採っている
前者が世界に関わりを持つ自我であるのに対して、後者は「無関心な傍観者」としての自我である

このテーゼがよく理解できるのは、その構造が自分の中にもあることが見えるからである
最初の仏版ブログにその傾向が現れていたということなのだろうか?
そのことには気付かなかったが、あったのかもしれない
自分が書くものの特徴については、なかなか分からないものである
これからも折に触れて、フッサールさんの考えを「反省」してみたい




jeudi 11 mai 2017

突然の嵐



本日は曇り時々雨で少々冷えた
昨日発見したところで午前中過ごす
質素なところなので、意外に集中できる
久し振りに勉強しているような気になる

これも久しぶりに夕方から外出
午前中に浮かんだところを纏めるためにいつものカフェへ
あくまでも第一段階だが、 それなりにできたようだ
この地道な営みがこれから求められるのだろう

ところで、カフェに入った途端、もの凄い雨と風が吹き荒れた
窓の外は白くなり、景色は見えず
それほど長くはなかったが、マロニエの花は落ち、辺り一面が真っ白になっている
一瞬の変化の中にいるのもなかなか味があった

今日はそのカフェからのアップとなった








帰り、幾分水かさが増したように見えるロワール沿いを歩いてきた
緑滴る大木の下を水溜まりを避けながら
そんな中を歩いている人を何人か見かけた
素晴らしい気分であった
晴れた夕暮れにあの川沿いで過ごすのも悪くないだろう

そんな気分でバスを待っている時、完璧な虹が現れた
最初にこの町に来た時に見た途中が欠けているものとは違う 
夜の9時過ぎの虹、こういう時に限ってカメラを持参していなかった
何かのご褒美だったのだろうか






mercredi 10 mai 2017

興味深いスピンオフ



今朝、最近発見した近くの郵便ポストに投函
そのポストと同様、以前からそこにあったレストランに気付く
これまでそこをカフェ代わりに使おうという考えさえ浮かんでこなかった
そこで暫く読んでみたが、使えそうである
こんな近くにこんなところがあるとは思いもよらなかった
こういう盲点を発見するのも楽しみになっている
実はそれが余りに多くなっているので、楽しみは尽きないのだが、、


ところで、今回のフランス大統領選の後、日本の政治状況が浮かんできた
日本は今沈滞の中にあるという
その沈滞と並走しているように見えるのは、皮肉と揶揄と諦念と時に罵倒の類になるのだろうか
今の問題と真正面から向き合い、新しいビジョンを提示するような人が見当たらない

一見、この沈滞を打ち破るために立ち上がっているように見えるものもあるが、訴えかけてこない
それはおそらく深い思索のなかなら生まれてきたものではないからではないか
出てくる言葉の背後に何かを感じないのである
そう感じたのは、マクロンが少なくとも言葉の上でその方向を向いているように見えたからだろう

この状況を打ち破るにはマクロン的な人物の登場が求められるのではないか
外から見れば1年ほど前には殆ど無名だったというくらいの若い人材、隠れている人材である
既存の野党が機能しない状態では、その枠を超えた思考をする人が必要になるのではないか
そのような人材が出るだけの余裕、スペースがいまの日本にあるのだろうか
悲観的状況をものともせず、既存の勢力を取り込み進むだけの力量を持つ人物は現れるのか
そんな夢想とでも言うべきものが浮かんできた

これは離れているからこそ浮かんできたものかもしれない
と同時に、今回、大統領選のカバーをしていなければ、こんな夢想も生まれなかっただろう
そう考えると、面白いスピンオフと言えるのかもしれない






mardi 9 mai 2017

哲学者ポール・リクールとエマニュエル・マクロン



フランス現代の哲学者にポール・リクール(Paul Ricoeur, 1913-2005)がいる
彼は自らの仕事を偉大なテクストを読み続けることと考えていた
巨人の肩の上の小人に例えながら
この哲学者とマクロンの意外な接点を知ることになった

マクロンはリクールの助手をしていたという
その時に前世紀について学び、歴史を考えることを学んだと選挙前に出した本で述べている
さらに、リクールについてESPRIT誌に論文も書いている
タイトルは、La lumière blanche du passé. Lecture de la Mémoire, l'histoire, l'oubli
リクールの『記憶、歴史、忘却』を読んでの考察になるのだろうか
この本にはマクロンへの謝辞も書かれているという

それ以来、リクールと関係のあった次のような人に深い影響を受け、変容して行ったと語っている
 
 オリヴィエ・モンジャン(Olivier Mongin, un écrivain, essayiste et éditeur français, 1951-)
   ESPRIT誌の編集長を1988年~2012年まで務めた
 フランソワ・ドス(François Dosse, un historien et épistémologue français, 1950-)
 カトリーヌ・ゴールデンシュタイン(Catherine Goldenstein
 テレーズ・デュフロー(Thérèse Duflot)


特に選挙戦後半だが、彼の主張には意外と背骨となっているものがあるような気がしていた
彼の中にある進歩への信仰や自由の尊重、フランスやヨーロッパへの強い思いの背後にあるもの
言わば、啓蒙思想そのものを推し進めようとする力になっているもの
それは文学や哲学の素養に裏打ちされているのではないか
さらに、痛みの癒しや和解という言葉の背後にはリクールの哲学が反映されていたのではないか

単なる政治・金融の技術だけではなく、そこから距離を取ることを可能にする文学や哲学からの目
彼はそれを持っていて、それが彼を動かす力になっていた可能性がある
これから調べなければならないが、興味深い視点を得ることができた